2012年11月24日土曜日
2012年11月10日土曜日
〈民意のありか:1〉領土、振り回される島
【富田祥広】尖閣諸島の領有権をめぐり日中両国のせめぎ合いが続く。こと領土問題となると、開戦前夜のような勇ましい声が一部であがる。出口はないのか。台湾を望む国境の島、沖縄・与那国島を歩きながら、考えた。
台湾まで西へ111キロ、日本最西端の与那国島。10月半ば、日本で一番最後に沈む夕日を背に、岬から漁港を見下ろした。主がいない漁船がぽつんぽつんと岸につながれていた。
「漁には行けん。商売もできん。なのに補償はなんもない。飢え死にしろと言うのと同じさ」。地元の漁師、中島勝治さん(46)は言葉に怒りを込めた。
尖閣諸島の周辺はハマダイなど高級魚の好漁場だ。だが、9月の国有化以降、中国の監視船が繰り返し姿を見せ始めた。捕らえられるのではと不安になり、近づけなくなった。「収入は3割以上減った」
漁師たちには16年前の記憶がよみがえる。1996年3月、台湾の総統選挙を前に中国がミサイルを威嚇発射。一つが台湾を越えて与那国島の60キロ沖に着弾し、漁に出られなくなった。「本土の安全な所にいる人たちが大声出すのは勝手だけど、こっちは生活と命がかかってるんだ」
◇
《自衛隊基地ストップ》 《自衛隊誘致は悲願》
周囲約27キロの島のあちこちに、与那国町が国に要請する自衛隊配備をめぐる賛否の横断幕がはためく。
父を沖縄戦で亡くした安里与助さん(70)は「島に武器が入ると攻撃対象になる」と反対する。台湾との交易を再び盛んにし、島を活性化するには緊張を高めるべきでないと思う。賛成の金城信浩さん(68)は「自衛隊員と家族が来れば過疎に歯止めがかかる」。父は安里さんの父と同じガマ(壕(ごう))で戦死した。もちろん反戦だが、かつて1万人以上だった人口が約1600人まで減った島の将来に危機感が募る。「人がいなくなれば町も国も成り立ちません」
ただ、2人とも、尖閣諸島をめぐる日中のあつれきは距離を置いて見ていた。安里さんは「騒ぎ立てるほど相手を刺激する。互いに干渉しないほうがいいのでは」。金城さんは「結果的に両国とも国益を損ねていると思う」と言った。
◇
島の名産、アルコール度数60度の泡盛。与那覇有羽(ゆうう)さん(26)は自宅で瓶にラベルを貼っていた。酒造会社の下請け仕事で生計を立てながら、祭りや祝いの行事で三線(さんしん)を弾く。
中学卒業後、沖縄本島で琉球芸能を学んだ。「文化にとって民族意識ってすごく大事。自分が誰なのかを忘れない原点ですから」
尖閣問題をどう考えるか彼に尋ねると、しばらく言葉を探し、続けた。
「それでも、民族意識みたいなのを守るために争ってはだめ。違う文化が出会って、また新しい文化が生まれてきたんですから。閉じこもらず、心開いて」
戦前、台湾は500キロ離れた那覇よりずっと身近な都会だった。当時を知る池間苗さん(92)を訪ねた。
「昔は台湾から人がたっくさん来た。にぎやかだった」。港には台湾料理店が並び、台湾の行商が砂糖や衣服を売りに来た。修学旅行や出稼ぎ先も台湾。国境線が引かれた戦後もしばらく、密貿易が続いた。
「また台湾と自由に行き来できませんかね。中国とも仲良くして。私たちずっと、お隣なんですから」
◇
解散・総選挙の足音が聞こえてきました。政治をめぐる状況は混沌(こんとん)とし、経済の先行きも見通せません。一方で、民主主義を見つめ直そうという動きも。私たちはどこへ向かおうとしているのでしょうか。記者が各地を歩き、「民意のありか」を探します。
◇
〈領土をめぐる最近の動き〉 東京都知事だった石原慎太郎氏が4月、尖閣諸島の購入計画を表明。野田佳彦首相は7月に国有化方針を示し、9月に国有化した。領有権を主張する中国では各地で反日デモが激化し、「愛国無罪」を叫ぶデモ隊などが日系企業を焼き打ちするなど暴徒化した。韓国の李明博(イミョンバク)大統領は8月、日韓両国が領有権を主張する竹島に現職大統領として初めて上陸。日韓関係は冷え込んだ。
台湾まで西へ111キロ、日本最西端の与那国島。10月半ば、日本で一番最後に沈む夕日を背に、岬から漁港を見下ろした。主がいない漁船がぽつんぽつんと岸につながれていた。
「漁には行けん。商売もできん。なのに補償はなんもない。飢え死にしろと言うのと同じさ」。地元の漁師、中島勝治さん(46)は言葉に怒りを込めた。
尖閣諸島の周辺はハマダイなど高級魚の好漁場だ。だが、9月の国有化以降、中国の監視船が繰り返し姿を見せ始めた。捕らえられるのではと不安になり、近づけなくなった。「収入は3割以上減った」
漁師たちには16年前の記憶がよみがえる。1996年3月、台湾の総統選挙を前に中国がミサイルを威嚇発射。一つが台湾を越えて与那国島の60キロ沖に着弾し、漁に出られなくなった。「本土の安全な所にいる人たちが大声出すのは勝手だけど、こっちは生活と命がかかってるんだ」
◇
《自衛隊基地ストップ》 《自衛隊誘致は悲願》
周囲約27キロの島のあちこちに、与那国町が国に要請する自衛隊配備をめぐる賛否の横断幕がはためく。
父を沖縄戦で亡くした安里与助さん(70)は「島に武器が入ると攻撃対象になる」と反対する。台湾との交易を再び盛んにし、島を活性化するには緊張を高めるべきでないと思う。賛成の金城信浩さん(68)は「自衛隊員と家族が来れば過疎に歯止めがかかる」。父は安里さんの父と同じガマ(壕(ごう))で戦死した。もちろん反戦だが、かつて1万人以上だった人口が約1600人まで減った島の将来に危機感が募る。「人がいなくなれば町も国も成り立ちません」
ただ、2人とも、尖閣諸島をめぐる日中のあつれきは距離を置いて見ていた。安里さんは「騒ぎ立てるほど相手を刺激する。互いに干渉しないほうがいいのでは」。金城さんは「結果的に両国とも国益を損ねていると思う」と言った。
◇
島の名産、アルコール度数60度の泡盛。与那覇有羽(ゆうう)さん(26)は自宅で瓶にラベルを貼っていた。酒造会社の下請け仕事で生計を立てながら、祭りや祝いの行事で三線(さんしん)を弾く。
中学卒業後、沖縄本島で琉球芸能を学んだ。「文化にとって民族意識ってすごく大事。自分が誰なのかを忘れない原点ですから」
尖閣問題をどう考えるか彼に尋ねると、しばらく言葉を探し、続けた。
「それでも、民族意識みたいなのを守るために争ってはだめ。違う文化が出会って、また新しい文化が生まれてきたんですから。閉じこもらず、心開いて」
戦前、台湾は500キロ離れた那覇よりずっと身近な都会だった。当時を知る池間苗さん(92)を訪ねた。
「昔は台湾から人がたっくさん来た。にぎやかだった」。港には台湾料理店が並び、台湾の行商が砂糖や衣服を売りに来た。修学旅行や出稼ぎ先も台湾。国境線が引かれた戦後もしばらく、密貿易が続いた。
「また台湾と自由に行き来できませんかね。中国とも仲良くして。私たちずっと、お隣なんですから」
◇
解散・総選挙の足音が聞こえてきました。政治をめぐる状況は混沌(こんとん)とし、経済の先行きも見通せません。一方で、民主主義を見つめ直そうという動きも。私たちはどこへ向かおうとしているのでしょうか。記者が各地を歩き、「民意のありか」を探します。
◇
〈領土をめぐる最近の動き〉 東京都知事だった石原慎太郎氏が4月、尖閣諸島の購入計画を表明。野田佳彦首相は7月に国有化方針を示し、9月に国有化した。領有権を主張する中国では各地で反日デモが激化し、「愛国無罪」を叫ぶデモ隊などが日系企業を焼き打ちするなど暴徒化した。韓国の李明博(イミョンバク)大統領は8月、日韓両国が領有権を主張する竹島に現職大統領として初めて上陸。日韓関係は冷え込んだ。
2012年9月17日月曜日
原発避難者の移住・保養支援で全国の団体が連携、協議会設立
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福島第1原発事故に直面した福島県の人々を、保養や移住の受け入れ態勢を充実させることで支えようと、支援団体が連携して「311受入全国協議会(略称・うけいれ全国)」を発足させた。保養などに関する情報を発信するほか、中長期的な視点で避難者や避難を望む家族の受け皿づくりを考える。共同代表の一人には、避難者を多く受け入れる山形県から、山形市のNPO「毎週末山形」代表佐藤洋さん(44)が就いた。
「うけいれ全国」には田沢湖のびのびキッズプロジェクト(秋田)、東北ヘルプ(宮城)など東北の支援団体をはじめ、北海道から九州まで全国の20団体が参加。4日に東京で記者会見を開いて設立を表明した。
当面は(1)受け入れ情報の共有と、保養・移住希望者のニーズに合った情報の提供(2)保養データベースの運用(3)保養の質の向上(4)被災地や避難先での相談会開催-などを柱に活動を展開する。
これまでは、避難者受け入れや保養の取り組みを束ねる全国規模の組織がなく、連携強化を求める声が強まっていた。今後、賛同する団体に参加を呼び掛ける。
共同代表は3人制で、佐藤さんは東北を代表する。山形県内では現在、約1万2000人の避難者が暮らす。福島から数日間の保養に来る人も多く、「毎週末山形」は週末を利用した保養企画などを手掛けている。
佐藤さんは「苦悩する福島の方々の真のニーズが、山形は最も可視化されている。ニーズを全国に発信し、避難者に寄り添おうとする思いと行動をつないでいきたい」と決意を語る。
支援関係者らによると、原発事故から1年半がたち、福島県内では「避難や保養を表立って言い出しにくくなった」「福島を離れて暮らしていることに負い目のようなものを感じる」といった声が聞かれるという。
うけいれ全国は状況の変化に配慮し、きめ細かな対応を目指す。佐藤さんは「受け入れに取り組んできた全国のノウハウをつなぎ、持続していける態勢を整えていきたい」と話している。
「うけいれ全国」には田沢湖のびのびキッズプロジェクト(秋田)、東北ヘルプ(宮城)など東北の支援団体をはじめ、北海道から九州まで全国の20団体が参加。4日に東京で記者会見を開いて設立を表明した。
当面は(1)受け入れ情報の共有と、保養・移住希望者のニーズに合った情報の提供(2)保養データベースの運用(3)保養の質の向上(4)被災地や避難先での相談会開催-などを柱に活動を展開する。
これまでは、避難者受け入れや保養の取り組みを束ねる全国規模の組織がなく、連携強化を求める声が強まっていた。今後、賛同する団体に参加を呼び掛ける。
共同代表は3人制で、佐藤さんは東北を代表する。山形県内では現在、約1万2000人の避難者が暮らす。福島から数日間の保養に来る人も多く、「毎週末山形」は週末を利用した保養企画などを手掛けている。
佐藤さんは「苦悩する福島の方々の真のニーズが、山形は最も可視化されている。ニーズを全国に発信し、避難者に寄り添おうとする思いと行動をつないでいきたい」と決意を語る。
支援関係者らによると、原発事故から1年半がたち、福島県内では「避難や保養を表立って言い出しにくくなった」「福島を離れて暮らしていることに負い目のようなものを感じる」といった声が聞かれるという。
うけいれ全国は状況の変化に配慮し、きめ細かな対応を目指す。佐藤さんは「受け入れに取り組んできた全国のノウハウをつなぎ、持続していける態勢を整えていきたい」と話している。
2012年8月1日水曜日
高校生作った「那須かるた」、商品化へ 栃木
那須町寺子乙の県立那須高校(生徒数426人)の生徒たちが作った郷土を紹介する「那須かるた」が、観光土産品として8月下旬にも商品化されることになった。地域の歴史や名所などを題材にしたのが高い評価を受け、「那須ブランド」にも認定された。
同校は、統一テーマとして地域貢献教育の「観光プラン」を進めている。地域に役立つ実践教育でもある。
「那須かるた」もそのひとつ。県内の県立高で唯一のリゾート観光科の生徒が中心となって、かるたに登場する名所など観光資源を選定し、文芸部が読み札の文句を考えた。絵札のデザインは美術部が担当するなど、みんなで力を合わせて昨年3月に完成した。
那須の自然や名所旧跡、歴史を5・7・5の文字数を基本に44枚の読み札で紹介する。「あ」の「あたたかさ 人に与える 那須ことば」で始まり、「わ」の「わが故郷 那須のよさ知る 那須検定」まで。美しい風景なら「リンドウは 心を癒(いや)す 那須の花」と語り、歴史なら「目もくらむ 美女の正体 九尾の狐(きつね)」などとなっている。
読み札の裏面には、名所や歴史の解説文も記され、楽しみながら那須のことが分かる。カラーの絵札も力作だ。200セット作り、町内の小中学校や幼稚園などに配った。
今月5日の「なすまち子どもフェスティバル」でも、昨年に続いて「那須かるた大会」が開かれる。
那須ブランドは、商工会や観光協会など町経済四団体推進連絡協議会が2008年から認定しており、今年で5回目。8点の応募の中から5点が選ばれた。これまでに43品目が受けている。
発売するのは観光施設運営の第三セクター「那須未来」。1セット千円で、道の駅那須高原友愛の森などで取り扱いを始める予定。
製作の中心になった当時の2、3年生は卒業したが、読み札に携わった文芸部長の栄秋穂さん(3年)は「那須の歴史など知らないこともあり、勉強しながらで難しかった。努力が実ってうれしい」と話している。
(人見正秋)
同校は、統一テーマとして地域貢献教育の「観光プラン」を進めている。地域に役立つ実践教育でもある。
「那須かるた」もそのひとつ。県内の県立高で唯一のリゾート観光科の生徒が中心となって、かるたに登場する名所など観光資源を選定し、文芸部が読み札の文句を考えた。絵札のデザインは美術部が担当するなど、みんなで力を合わせて昨年3月に完成した。
那須の自然や名所旧跡、歴史を5・7・5の文字数を基本に44枚の読み札で紹介する。「あ」の「あたたかさ 人に与える 那須ことば」で始まり、「わ」の「わが故郷 那須のよさ知る 那須検定」まで。美しい風景なら「リンドウは 心を癒(いや)す 那須の花」と語り、歴史なら「目もくらむ 美女の正体 九尾の狐(きつね)」などとなっている。
読み札の裏面には、名所や歴史の解説文も記され、楽しみながら那須のことが分かる。カラーの絵札も力作だ。200セット作り、町内の小中学校や幼稚園などに配った。
今月5日の「なすまち子どもフェスティバル」でも、昨年に続いて「那須かるた大会」が開かれる。
那須ブランドは、商工会や観光協会など町経済四団体推進連絡協議会が2008年から認定しており、今年で5回目。8点の応募の中から5点が選ばれた。これまでに43品目が受けている。
発売するのは観光施設運営の第三セクター「那須未来」。1セット千円で、道の駅那須高原友愛の森などで取り扱いを始める予定。
製作の中心になった当時の2、3年生は卒業したが、読み札に携わった文芸部長の栄秋穂さん(3年)は「那須の歴史など知らないこともあり、勉強しながらで難しかった。努力が実ってうれしい」と話している。
(人見正秋)
2012年7月28日土曜日
戻れぬ福島を思う苦しみ 〈母子避難と向き合う〉
■山形避難者母の会代表 中村美紀(なかむら・みき)さん
福島県郡山市から山形市に避難して1年以上が経ちました。私の判断は間違っていなかったか、福島に残る大切な人たちを、県外避難という行為で傷つけていないか、ずっと自問自答してきました。福島に戻りたいが、まだ戻れない。自分が「戻れない」と言う場所に夫や親、親戚、友人たちが住んでいる。その事実がずっと私を苦しめてきました。
福島で生まれ育ち、結婚し、子どもを産み、骨を埋めよう。そう思っていた一人です。故郷が恋しくて仕方ありません。家族と夫と暮らしたい。
長女(9)、次女(5)、三女(2)と昨年3月に茨城県にいったん避難し、一度郡山に戻りましたが、長女に鼻血や口内炎など心配な症状が出ました。山形県が自主避難者を受け入れ始めていたので、山形市に避難しました。すぐに福島からの避難者約100人のメーリングリストに加わりました。
福島では放射能の話はできませんでした。洗濯物を外に干してる? 福島産品を食べてる? そんな会話で互いの考えを探り合うしかなかった。避難者同士メールでやりとりすると、直接会いたくなった。ただ一言、「大変だったね」と言ってほしかったんです。会うと、それだけで涙が出ました。「放射能怖いよね」「当たり前だよね」と、やっと言えました。
今年5月には交流拠点「ふくしま子ども未来ひろば」を立ち上げました。資格をもった母親が多く、託児をし、読み書きも教え、助け合っています。
福島県に残っているお母さんだって不安はあります。子どもを週末などに県外や線量の低い地域に行かせる「週末保養」は疲れるかもしれませんが、思いきり深呼吸し、リフレッシュできます。1週間のうち数日だけでも放射能によるストレスから解放されれば、避難しなくても家族一緒に暮らせます。
避難が長期化すると、子どもは土地になじみ、帰りたがらないかもしれない。年齢によっては福島を覚えていないかもしれない。定住する人、帰る人、これから分かれていくでしょう。
山形県への避難者は、いずれは福島に帰ることが前提です。家族や知人、福島の様子が気になるから、隣の県にとどまっている。県外へ避難した人たちと福島をつなぐこと、双方の気持ちを伝えること。それが県外に出ることができている私たちの役割だと思っています。
県外に避難する、福島にとどまる。どちらの選択も肯定すべきだと思います。それができて初めて福島の復興がある気がします。ストレスなく普通に暮らしたい。その思いは一緒です。
娘たちの未来が、福島の明日が、今よりもよいものになるように、大人として責任を果たしたいと思っています。(聞き手・西村隆次)
◇
75年、福島市生まれ。栄養士資格を持ち、料理教室などで教えている。「山形避難者母の会」代表。今年5月、福島からの避難者の交流拠点をJR山形駅近くに開いた。
朝日新聞 2012年7月28日03時00分
福島県郡山市から山形市に避難して1年以上が経ちました。私の判断は間違っていなかったか、福島に残る大切な人たちを、県外避難という行為で傷つけていないか、ずっと自問自答してきました。福島に戻りたいが、まだ戻れない。自分が「戻れない」と言う場所に夫や親、親戚、友人たちが住んでいる。その事実がずっと私を苦しめてきました。
福島で生まれ育ち、結婚し、子どもを産み、骨を埋めよう。そう思っていた一人です。故郷が恋しくて仕方ありません。家族と夫と暮らしたい。
長女(9)、次女(5)、三女(2)と昨年3月に茨城県にいったん避難し、一度郡山に戻りましたが、長女に鼻血や口内炎など心配な症状が出ました。山形県が自主避難者を受け入れ始めていたので、山形市に避難しました。すぐに福島からの避難者約100人のメーリングリストに加わりました。
福島では放射能の話はできませんでした。洗濯物を外に干してる? 福島産品を食べてる? そんな会話で互いの考えを探り合うしかなかった。避難者同士メールでやりとりすると、直接会いたくなった。ただ一言、「大変だったね」と言ってほしかったんです。会うと、それだけで涙が出ました。「放射能怖いよね」「当たり前だよね」と、やっと言えました。
今年5月には交流拠点「ふくしま子ども未来ひろば」を立ち上げました。資格をもった母親が多く、託児をし、読み書きも教え、助け合っています。
福島県に残っているお母さんだって不安はあります。子どもを週末などに県外や線量の低い地域に行かせる「週末保養」は疲れるかもしれませんが、思いきり深呼吸し、リフレッシュできます。1週間のうち数日だけでも放射能によるストレスから解放されれば、避難しなくても家族一緒に暮らせます。
避難が長期化すると、子どもは土地になじみ、帰りたがらないかもしれない。年齢によっては福島を覚えていないかもしれない。定住する人、帰る人、これから分かれていくでしょう。
山形県への避難者は、いずれは福島に帰ることが前提です。家族や知人、福島の様子が気になるから、隣の県にとどまっている。県外へ避難した人たちと福島をつなぐこと、双方の気持ちを伝えること。それが県外に出ることができている私たちの役割だと思っています。
県外に避難する、福島にとどまる。どちらの選択も肯定すべきだと思います。それができて初めて福島の復興がある気がします。ストレスなく普通に暮らしたい。その思いは一緒です。
娘たちの未来が、福島の明日が、今よりもよいものになるように、大人として責任を果たしたいと思っています。(聞き手・西村隆次)
◇
75年、福島市生まれ。栄養士資格を持ち、料理教室などで教えている。「山形避難者母の会」代表。今年5月、福島からの避難者の交流拠点をJR山形駅近くに開いた。
朝日新聞 2012年7月28日03時00分
2012年7月4日水曜日
2012年6月20日水曜日
脱原発、山里で誓う 鳥取・智頭へ移住の2家族
朝日新聞デジタル版(2012年6月20日)
原発を離れ、田舎へ――。この春、幼い子連れの2家族が、関東や関西から鳥取県智頭町の山あいにある八河谷(やこうだに)地区に移住した。東日本大震災による原発事故をきっかけに、「原発頼みの便利な暮らしを脱したい」と、田舎暮らしに踏み切った。
八河谷地区は、町の中心部から車で約20分。山に囲まれた20世帯40人ほどの小さい集落で、住人の多くが60歳以上だ。
・・・さん(41)、・・さん(42)夫婦は4月下旬、長男・君(5)を連れて横浜市から転居した。それまで自営でやっていた自動車整備の仕事は廃業した。「迷いはなかった」と夫婦は口をそろえる。
昨年3月の原発事故から、放射能汚染を心配して食事に気をつかうようになった。材料の生産地が分からない食べ物を避けて外食が減り、保育園に通う・君にはお弁当を持たせた。
周囲からは過剰反応と思われ、両親や友人と食事に行くのもおっくうになった。「まるで変人扱いで、気持ちを分かってもらえないのがつらかった」と・・さん。次第に、原発に頼って過剰にエネルギーを消費する社会のあり方に、疑念が強まった。「原発に頼らない暮らしをしたい。でも、都会にいながら生活を変えることはできない」。夫婦は移住を決めた。
何の縁もない八河谷を選んだのは、「直感だった」と・・・さん。いずれの原発からも遠い場所をと、鳥取県東部に絞って移住先を探した。事前連絡なしで町役場を訪ねたとき、職員がすぐに対応してくれ、案内されたのが八河谷だった。
初めての田舎暮らしだが、「毎日おもしろすぎて」と、表情は晴れ晴れしている。高齢者ばかりの地元住民に助けられ、勇気づけられるという。
「ここでは80代の人も毎日畑仕事をして、自立している。何かに頼らずに生きようとする彼らの姿勢は、勉強になる」。直裕さんは近所の人に教わりながら、農業を勉強中だ。生活が安定するまでは、淳子さんのアルバイトや貯金を切り崩しながら、やりくりしていくという。
上野俊彦さん(32)は3月下旬、妻啓江(よしえ)さん(31)、長女澪莉(みおり)ちゃん(2)を連れて、大阪市から転居した。昨年3月の東日本大震災までは、仲間と群馬県で農場を経営していた。
昨年3月15日、農場長から「手元の線量計の針が振り切れた」と電話が入った。その日のうちに群馬を離れ、俊彦さんの実家がある大阪に避難した。
もともと、田舎暮らしがしたくて大阪から群馬に引っ越した。大阪に戻り、新たな移住先を探した。「子どもは山の中で育てたい」との思いから、雑誌に載っていた智頭町の「森のようちえん」の記事が目にとまった。役場で八河谷の空き家を紹介され、入居を決めた。
「決め手は子どもだった」と俊彦さん。チェルノブイリ原発事故で被曝(ひばく)した子どもたちの写真を見て、娘の姿が重なったという。啓江さんは、「同じにはならないかもしれないけど、どっちに転んでも安全な方を選びたかった」と話す。
八河谷では、畑づくりに大忙しの日々。農業で生計を立てるつもりだ。俊彦さんは、「自然の中での暮らしは気持ちよくて、体が喜んでいる」。
定住支援を担当する町企画課の西川公一郎さんは、「東日本大震災以降、問い合わせが増えている。原発を避けて来る人は、今後も増えるだろう」と話す。千葉県からも新たに1世帯7人が、転入を検討しているという。
(村井七緒子)
八河谷地区は、町の中心部から車で約20分。山に囲まれた20世帯40人ほどの小さい集落で、住人の多くが60歳以上だ。
・・・さん(41)、・・さん(42)夫婦は4月下旬、長男・君(5)を連れて横浜市から転居した。それまで自営でやっていた自動車整備の仕事は廃業した。「迷いはなかった」と夫婦は口をそろえる。
昨年3月の原発事故から、放射能汚染を心配して食事に気をつかうようになった。材料の生産地が分からない食べ物を避けて外食が減り、保育園に通う・君にはお弁当を持たせた。
周囲からは過剰反応と思われ、両親や友人と食事に行くのもおっくうになった。「まるで変人扱いで、気持ちを分かってもらえないのがつらかった」と・・さん。次第に、原発に頼って過剰にエネルギーを消費する社会のあり方に、疑念が強まった。「原発に頼らない暮らしをしたい。でも、都会にいながら生活を変えることはできない」。夫婦は移住を決めた。
何の縁もない八河谷を選んだのは、「直感だった」と・・・さん。いずれの原発からも遠い場所をと、鳥取県東部に絞って移住先を探した。事前連絡なしで町役場を訪ねたとき、職員がすぐに対応してくれ、案内されたのが八河谷だった。
初めての田舎暮らしだが、「毎日おもしろすぎて」と、表情は晴れ晴れしている。高齢者ばかりの地元住民に助けられ、勇気づけられるという。
「ここでは80代の人も毎日畑仕事をして、自立している。何かに頼らずに生きようとする彼らの姿勢は、勉強になる」。直裕さんは近所の人に教わりながら、農業を勉強中だ。生活が安定するまでは、淳子さんのアルバイトや貯金を切り崩しながら、やりくりしていくという。
上野俊彦さん(32)は3月下旬、妻啓江(よしえ)さん(31)、長女澪莉(みおり)ちゃん(2)を連れて、大阪市から転居した。昨年3月の東日本大震災までは、仲間と群馬県で農場を経営していた。
昨年3月15日、農場長から「手元の線量計の針が振り切れた」と電話が入った。その日のうちに群馬を離れ、俊彦さんの実家がある大阪に避難した。
もともと、田舎暮らしがしたくて大阪から群馬に引っ越した。大阪に戻り、新たな移住先を探した。「子どもは山の中で育てたい」との思いから、雑誌に載っていた智頭町の「森のようちえん」の記事が目にとまった。役場で八河谷の空き家を紹介され、入居を決めた。
「決め手は子どもだった」と俊彦さん。チェルノブイリ原発事故で被曝(ひばく)した子どもたちの写真を見て、娘の姿が重なったという。啓江さんは、「同じにはならないかもしれないけど、どっちに転んでも安全な方を選びたかった」と話す。
八河谷では、畑づくりに大忙しの日々。農業で生計を立てるつもりだ。俊彦さんは、「自然の中での暮らしは気持ちよくて、体が喜んでいる」。
定住支援を担当する町企画課の西川公一郎さんは、「東日本大震災以降、問い合わせが増えている。原発を避けて来る人は、今後も増えるだろう」と話す。千葉県からも新たに1世帯7人が、転入を検討しているという。
(村井七緒子)
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