2016年11月21日月曜日

(核リポート)脱原発訴訟の先頭に立つ、元裁判長の決意

聞き手・小森敦司
2016年11月21日16時56分
 東京電力福島第一原発の事故後、若狭湾の原発の運転差し止めを求める住民らの訴えを司法は二度認めた。住民側弁護団の先頭に立つのは、裁判官出身の弁護士、井戸謙一さん。裁判長時代、巨大地震による事故のリスクを指摘し、営業運転中の原発差し止めを初めて導いたその人だ。原発の是非をめぐり、司法判断の流れは変わりつつあるのか。3・11のショックで立ち上がったという弁護士は、かぎを握るのは「世論」と語る。
■きっかけは3・11
 ――脱原発の一連の訴訟にかかわるきっかけは。
 「福島の事故のあと、同じ滋賀県の故・吉原稔弁護士から『大津地裁で原発差し止めの裁判をやりたいので弁護団に入ってくれないか』と誘われたのですが、私はお断りしていたんです。ついこの間まで法壇(裁判官席)の真ん中にいた人間が、自分がかかわったのと同種の裁判で当事者席に座るのは、品がないように思えて。それが、吉原弁護士が、とにかく話だけでもと来られたのですが、若手弁護士3人も一緒で、もう、私がウンと言うまで絶対に帰らないという雰囲気(笑)。それで『アドバイザーなら』と承諾したんです」
 「そうして2011年8月、定期検査で停止中の関西電力福井県内の原発7基について再稼働を認めないよう求める仮処分申請を大津地裁に出しました。しかし、12年初め、吉原弁護士が病に倒れてしまって。弁護団を見渡すと若い人ばかり。オレがやると腹を決めました。これとは別に、11年6月、別の親しい弁護士から、放射線の悪影響を心配して子どもの疎開を求める集団訴訟に誘われ、その仮処分申請を福島地裁の郡山支部に出しにいくのですが、いきなりテレビカメラの前で先頭を歩かされ、記者会見を仕切らされ、中心的立場になってしまいました」
 ――原発の差し止めを認める06年の金沢地裁判決を書いたという経験も背中を押したのでは。
 「やはり、3・11ショックです。原発の差し止めを認める判決を出したとはいえ、こんなに早く事故が起き、あんな大変な事態を招くとはイメージしていませんでした。福島の事故で明らかになった原発の集中立地や使用済み核燃料のプールの危険性についても、自分の認識の甘さを思い知らされました。もっとも、あれほどの事故が起きたのだから、日本の原子力政策は、私なんかが声を上げなくても根本的に変わるだろうと思いました。ところが、日本政府は何もなかったかのように原発再稼働路線を進めます。放射線防護もめちゃくちゃ。国民のために働いていると思っていた官僚に裏切られた、とショックでした。自分の中に『義憤』を覚えました」
 
北陸電力志賀原発2号機訴訟は1999年、地元住民はじめ17都府県の135人が北陸電力を相手取り、建設差し止め(のちに運転差し止めに変更)を求めて金沢地裁に提訴。井戸さんは2006年3月、同地裁の裁判長として、巨大地震による事故発生の危険性を指摘、営業運転中の原発の運転差し止め訴訟では初めて原告側の訴えを認める判決を言い渡した。高裁で原告が逆転敗訴し、10年に最高裁で確定した。ほかに住民側が勝訴したのは、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)の設置許可無効確認訴訟で、二審・名古屋高裁金沢支部が03年に許可無効の判決を出している。ただ、これも05年に最高裁が二審判決を破棄、住民側逆転敗訴とした。
 
■専門家に従うのが「無難」
 ――福島の事故前、原発の運転差し止めを求める訴訟は、ほとんどが原告住民側の敗訴でした。
 「裁判官には、専門家の判断に従って判決を書いていれば『無難』と考えているところがあります。変に目立ちたくないんですね。流れに逆らって、それが間違いだと大きなミスになりますが、流れに従って間違っても、裁判所はみなそうなんだから、と言い訳できますよね」
 ――だからこそ、06年の金沢地裁判決は重い。のちに朝日新聞のインタビューでも、判決文の詰めの作業にとりかかり、布団の中で、言い渡し後の反響を考えていると真冬なのに体中から汗が噴き出した、と振り返っています。
 「あの判決があったので、日本の司法は救われたという自負はあります。ただ、あの裁判は、原告側が原発の危険性について一応の立証をしているので、被告の電力会社側がそれでも安全だという立証ができているかどうか、が問題でした。で、それができていない、と。そこから差し止めという結論が自然に出てきました」
 ――北陸電力の姿勢はどうだったのでしょう。
 「『慢心』と言えるでしょうか。まさか、差し止められることはないと。国の規制に従っているということさえ言っておけば、あとは裁判所が救ってくれるという感覚だったと思います。ただ、あの判決は、原発をやめろというのではなく、動かすなら耐震性能をもう少しアップしてくださいという内容でした。当時、私も原発がないと日本の社会は成り立たないと思っていました。福島の事故後、原発はなくても大丈夫と学びましたけど」
■「世論」が裁判官動かす
 ――福島事故後の脱原発訴訟で、井戸さんらは大きく「2勝」しています。まず、福井地裁(樋口英明裁判長)が14年5月、関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じた。要は「経済より命」だと。改めて評価を。
 「裁判官の矜持(きょうじ)を示した、と思います。矜持という言葉が一番ぴったりきますね。従来の裁判所の判断によらずに、判決全体を一からつくりあげているんです。失礼ながら、樋口裁判長が、それまでの他の裁判で、(流れに逆らうような)目立った判断をしたと聞いたことがありません。普通の裁判官だと思います。しかし、福島原発事故で被害の深刻さを目の当たりにして、思い切った書き方ができたのだと思います」
 ――そして、再稼働したばかりの関西電力高浜3、4号機に対して、大津地裁(山本善彦裁判長)が16年3月、運転を差し止める仮処分決定を出した。驚きました。すぐに効力が生じるため、実際に稼働中の原発が止まった。前代未聞のことです。
 「山本裁判長ら裁判官は現実に止まることが分かっていたわけで、非常に勇気がいることだったと思います。しかし、山本裁判長は関西電力に対し、原告側の主張にかみあうように具体的に反論してくれと何度も警告していた。それに関電はちゃんと向き合わなかった。ですから、ああいう結論になるのも自然だったのだと私には思えます」
 ――井戸さんは、裁判官の認識も、市民の認識や意識が基盤と主張されています。
 「はい。大津地裁の仮処分決定も、『原発はいらない』という大きな世論が支えだったと思います。逆に、あの大津地裁の決定が世論に与えた影響も大きいのでは。司法も世論を変える刺激になりうるということです。政治でも新潟県知事選で脱原発派の候補が勝つと、それもまた世論に影響しますよね。そういう一つ一つのトピックが互いに影響しあいながら、原発なんていらないという社会を醸成していくのではないでしょうか」
 ――裁判官が気負わずに原発の運転差し止めを判断できる日がくると。
 「そのためにも、もっと世論が変わらないとダメです」
■「世界一安全」本当か
 ――法廷の外でも脱原発の「言論活動」をされています。例えば、日本の原発の建設費は1基4千億~5千億円なのに対し、欧州では安全規制の強化などで1兆円超かかる、と講演で話されていますね。「半額でできて、なぜ世界一安全なのか」と。
 「欧州で求められる(溶け落ちた炉心を受け止める)『コアキャッチャー』の設置や(大型航空機の衝突に耐える)二重構造の格納容器などは日本の新規制基準では必要とされていません。それらを求めなかったのは、電力会社が出せる程度の費用で補強させ、再稼働にこぎ着けるという全体戦略があったのではないでしょうか。コアキャッチャーなんて求めたら、費用がオーバーしてしまうということです」
 ――福島の事故後に民主党政権が定めた、運転期間を40年とする「原則」も骨抜きになりそうです。
 「安倍政権は15年7月、30年度の電源構成で原子力を20~22%と決めましたが、それを実現しようにも新設は厳しいので、40年超の老朽原発を動かすしかない、と考えたのでしょう。それで原子力規制委員会も、ほかに審査すべき候補はたくさんあるのに、あえて(40年超の)関西電力高浜原発1、2号機、美浜原発3号機の審査を優先して延長を認めた、と私は疑っています」
 ――大阪高裁の判事を退かれたのが11年3月31日。まさに東日本大震災・福島原発事故の20日後なんですね。
 「実は、私が生まれたのは1954年でビキニ水爆実験の年。任官した79年は米スリーマイル島原発事故があった年なんです。何かあるんですかね(笑)。退官前、地元に密着した街の弁護士になろうと思い描いて、自宅を買い求めていた滋賀県彦根市で弁護士事務所を開きましたが、いま、原発関連が仕事の7割ぐらいでしょうか。なかなか地元に根を張るにいたっていないですね」
 ――全国を飛び回っていますが、ご家族から何か。
 「妻からは、ちょっとは依頼を断りなさい、と言われます。旅行に行くとか、そういうこともしたかったと、時々、ぶつぶつ言われます。本当に申し訳ないと思っています」
     ◇
 井戸謙一(いど・けんいち) 54年、大阪府堺市生まれ、東京大学教育学部卒。79年に裁判官に任官。神戸や甲府、小倉、彦根、大阪、宇部、京都、金沢などの家裁・地裁・高裁を回り、11年3月31日、大阪高裁裁判官を最後に退官。現在、若狭湾の原発の差し止めを求めた「福井原発訴訟(滋賀)弁護団」の団長を務めるほか、福島の事故で子どもたちに無用な被曝(ひばく)をさせたとして国や福島県の責任追及を求める集団訴訟、青森県大間原発をめぐり対岸の北海道函館市が建設差し止めを求めた裁判の弁護活動にもかかわる。(聞き手・小森敦司

http://digital.asahi.com/articles/ASJCK4JX2JCKULFA00X.html

2016年8月22日月曜日

夢の自然農、山形で始める 京丹後に一時避難の橋本さん夫妻「いのちのつながり大切に」




「いのちを大切にする農業を続けたい」と語る橋本さん一家=山形県大江町で2016年8月3日、塩田敏夫撮影


 東日本大震災、そして福島原発事故は多くの人の運命を変えた。放射能汚染のひどい地域の人々は未だに帰郷できず、避難生活を送る。福島県郡山市出身で、一時京丹後市に避難していた橋本光弘さん(38)、彩子さん(36)夫妻は今、山形県大江町に暮らす。夢だった農薬や化学肥料を使わない自然農を実践し始めた。真っ黒に日焼けした夫妻は「経済効率を追求した結果、取り返しのつかない原発事故が起きた。本当の豊かさとは何でしょうか。いのちのつながりを大切にする社会を目指したい」と語った。【塩田敏夫】
     橋本さんは工業高校を卒業後、化学メーカーに就職し、12年間働いた。しかし、自社の利益のために限りある資源を浪費していると感じ、就農を目指し始めた。思い切って農機具を買った時、東日本大震災が発生した。
     郡山市は震度6弱。当時2歳だった長女夏実さん(8)と0歳だった長男健ちゃん(6)にガラス片が降り注ぐのを防ぐのが精一杯だった。
     郡山市は福島原発から60キロ離れている。当時、橋本さんには根拠のない「安心感」があり、放射性物質の危険性についての十分な認識はなかったという。
     しかし、放射性物質による土壌汚染で農作物の作付けを断念せざるを得なかった。喉に違和感を感じ、大量のたんが出るようになった。夏実さんは頻繁に鼻血を出すようになってしまった。子どもたちの様子を見て、いても立ってもいられないようになった。心身とも限界を超えた。
     震災から2ヵ月余り経った5月26日、同居する両親に別れを告げた。父親は脳梗塞(こうそく)で寝たきりの状態。母親が介護していた。絶望して言葉を発しない父親、号泣する母親。橋本さんは車に荷物を積み込み、逃げるように丹後に向かった。インターネットで調べた結果、農業を志す人を受け入れるとの情報があったからだ。
     丹後の人々は温かく迎えてくれた。京丹後市も家探しに積極的に動いた。橋本さんは同市弥栄町黒部の梅本農場で働き、彩子さんは同町の溝谷区の事務所で事務員となった。
     2年近く、丹後で暮らした。将来の独立のために家と農地を探した結果、山形県大江町が若い就農者を求めていることが分かり、思い切って移住することにした。大江町なら郡山市の両親にも定期的に会いに行ける距離だった。
     大江町は山形県の中央に位置し、人口は約9000人。農業が盛んだが、後継者の育成が大きな課題だ。橋本さんは今、80アールの田んぼと80アールの畑を耕す。松尾芭蕉が「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んだ最上川のほとりが耕作地だ。草取りが大変で、周囲の人たちから「変わり者」と言われるが、愚直に自然農を貫く。米や野菜は「おいしい」と評判を呼び、山形市内などの顧客が増え始め、彩子さんが配達に走る。
     橋本さんは「原発事故が起き、自分たちの暮らしが一変しました。いのちを守るため、何が本当の情報か見極めなければならないと痛感する日々でした。国がしたことを市民がきちんと考え、声を上げることが必要だと思います」と話した。
    〔丹波・丹後版〕

    2016年7月19日火曜日

    民泊解禁はばむ「旅館業界=厚労族」の戦後レジーム

    2016/7/19 6:30
    日本経済新聞 電子版
     住宅の空き部屋などに旅行者を有料で泊める民泊解禁の行方が怪しくなってきた。政府の検討会が解禁に向けたルール案をまとめたものの、年間営業日数の上限が決まらない。霞が関からは「法案提出は秋の臨時国会に間に合わないのではないか」との声も漏れる。
    ■旅館業界VS住宅業界
     争点となっている民泊の営業日数を巡っては旅館業界と民泊の担い手として名乗りを上げている住宅業界が激しく対立している。
     「公正な競争条件を保てない」。旅館業界は営業日数を年30日までに制限するよう主張。これに対し住宅業界は「日数制限があるならビジネスとしての参入は不可能」(全国賃貸住宅経営者協会連合会)と真っ向から対立。民泊のネット仲介を視野に入れるIT(情報技術)企業の経営者を中心にした新経済連盟も「日数制限を設けるのは断固反対」と加勢した。
    日数制限を巡り、民泊解禁の議論が紛糾している(マンションの一室を利用した大阪市の民泊)
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    日数制限を巡り、民泊解禁の議論が紛糾している(マンションの一室を利用した大阪市の民泊)
     「180日以下の範囲内で適切な日数を設定」。規制改革会議が5月に出した結論は「足して2で割る」式の玉虫色の文言に収めたが決着にはほど遠い。事情を知る関係者は「住宅業界のロビー活動に危機感を抱いた旅館業界が、日数制限なしという結論になるのを避けるため、ひとまず妥協したように見せかけただけだ」と話す。そして旅館業界は6月に入って「二の矢」を放った。
     「規制緩和の前に、まず取り締まりから始めなくてはならない」。民泊のルールが大筋で固まった6月上旬、反対ののろしをあげたのは自民党の重鎮、伊吹文明・元衆院議長だった。
     旅館業法の許可を得ないヤミ民泊の存在を改めて問題視した。議論を振り出しに戻すような言いぶりに、国土交通省幹部は「営業日数の議論では簡単に妥協しないというサインだ」と解説する。
     伊吹氏は理容、美容やクリーニング、浴場、旅館などに影響力がある自民党生活衛生議員連盟の会長をつとめる厚労族のドン。重鎮の「鶴の一声」で議論が巻き戻り民泊解禁の行方が見えにくくなった。
    ■源流は昭和20年代
     なぜ旅館の話に厚労族が口を挟むのか。厚生労働省が旅館やホテルの監督官庁だからだ。ではなぜ観光ビジネスには縁遠く見える厚労省が所管しているのか。話は昭和20年代にさかのぼる。
    旅館業法は昭和20年代にできた
    旅館業法通訳案内士法
    施行1948年1949年
    目的公衆衛生及び国民生活の向上に寄与する外国人観光旅客に対する接遇の向上を図り国際観光の振興に寄与する
    主な内容旅館やホテルの設備や衛生の基準を定める報酬を得て通訳ガイドをする場合、国家資格が必要
    問題点住宅を使った民泊に対応せず。ホテルと旅館の区分もあいまいに英語を話す都市部のガイドに偏っている。観光客のニーズも多様化
     「多数の人の集合・出入りする場所の衛生上の取り締まりは軽視することのできない問題であるので、この際、統一的な法律を制定してその徹底・強化を図る」。1948年(昭和23年)、参院厚生委員会で当時の竹田儀一厚生相が旅館業法案の趣旨説明をした。
     当時は戦後の混乱期で衛生状態が悪かった。不特定多数の人が出入りする旅館は感染症の温床。衛生管理が最優先課題だった。
     古い法律だけに時代にあわない部分も目立つ。例えば、ホテルと旅館では客室床面積の規定が異なる。ホテルは洋式、旅館は和式の設備を前提にしているためだが、いまはベッドを備えた旅館など和洋折衷も珍しくない。
     戦後にできて実態に合わなくなった法律はほかにもある。通訳ガイドの業務独占を定めた通訳案内士法も1949年に施行された。当時の外国人旅行者は進駐軍の将兵や家族で、訪日客は年数千人にすぎなかった。日本語が分からない外国人を相手にした詐欺まがいの業者を防ぐ狙いだったが、観光客のニーズが多様化し「量と質の両面で対応できないことが明白」(規制改革会議)と指摘されている。
     日本は訪日客が年2000万人も訪れる国になった。旅館業法や通訳案内士法などの「戦後レジーム」から脱却しなければ、観光大国への飛躍は望めない。(木原雄士)

    2016年3月23日水曜日

    「民泊」導入可否探る 丹波市ら 7市勉強会 旅館業法緩和の追い風 豊岡・但東は中学生受け入れ

    各市の現状報告や修学旅行生受け入れ事例などを聞いた情報交換会=氷上住民センターで
    各市の現状報告や修学旅行生受け入れ事例などを聞いた情報交換会=氷上住民センターで
    ホームステイのような形で個人宅に人を泊める「民泊」が注目を集めるなか、民泊導入による地域活性化の可否を探ろうと、氷上住民センターで16日、丹波市を含む7市の関係者が情報交換会を開いた。受け入れ実績がある豊岡、京丹後両市の事例を聞き、研究者の助言を受けた。旅館業法の一部緩和が決まるなど「民泊」に追い風が吹いており、交流人口を増やす策としての期待と、既存の民宿、旅館業者とのあつれきの懸念など、率直に意見交換した。
     民泊を研究する成美大学(福知山市)の中尾誠二経営学部教授が世話役を務め、丹波、豊岡(旧但東町エリア)、朝来、福知山、京丹後、舞鶴、宮津の各市の行政や住民団体、NPOが参加。
     中尾教授は、現在は21道府県が策定している「農山漁村の民泊に関するガイドライン」(兵庫県は未策定)に基き、旅館業法の営業許可なしに農家が修学旅行生ら、いなかの生活を体験する学生を受け入れる教育民泊が広がっているが、「必ずしも適法ではなく、グレーゾーンにある」と説明した上で、これを適法化しやすくする閣議決定が昨年12月になされたことを紹介。「4月から教育目的での民泊がやりやすくなる」とした。
     丹波市では、「木の駅プロジェクト」を進めるNPO法人丹波グリーンパートナーが、林業講習会の参加者の宿泊場所の確保などを目的に「林業研修目的での民泊」の実現を模索している。福井誠・市総合政策課係長は「林業だけでなく、農業面でも民泊をと中尾教授に助言を頂いたが、情報を得ながら模索している段階」と話した。
     参加市のうち、豊岡市の旧但東町エリアは、過去からの神戸市との交流事業の延長として、中学生を受け入れている。今年度も5、6、9月に神戸市3校から90―130人程度の受け入れが決まっており、「約40軒の農家の協力が必要で、協力農家集めにがんばらないといけない」と話した。うち、営業許可を受けた適法の「農家民宿」は今年度末で8軒の見込み。
     京丹後市は、適法の「農家民宿」が19軒あり、ここを中心に教育旅行を受けている。もっと推進したい思いがありながらも、一般客向けの既存民宿や旅館なども多く、協力をと言い出しづらい側面があるという。そうは言っても、民泊は、宿泊者と宿の提供者が共同調理をしたり、農業や漁業の体験をセットにしなければいけないという点で、プロの手による料理や布団の上げ下ろしもしてもらえる既存の宿泊施設とは趣が異なることを理解してもらい、推進したい考えを示した。
     春日町と接する福知山市三和地域では、「大阪から、6000円で民泊をしてくれないかと話が来ているが、こちらに受け皿がない」と話した。
     宿泊施設を伴う公園の指定管理者を務める宮津市のNPO法人はアレルギー除去食の対応などについて質問していた。
     中尾教授は、「民泊の受け入れ農家の数を確保するには1市完結より、近隣市と連携した方が、まとまった数を受けられる」と広域で取り組む意義を説き、「個人がやる民泊はもうからないので、金もうけでないところに意義を見出す必要がある」と助言した。
     民泊 ▽旅館業法による営業許可を取った「農家民宿」で宿泊する「適法」の「ホワイト民泊」▽教育目的に限り、営業許可を得ずとも宿泊させることができる、21道府県独自の「ガイドライン民泊」▽営業許可も取らず、ガイドラインにも基づかない「ブラック民泊」―に分類される。
     2015年12月22日の閣議決定 地方公共団体が設置する地域協議会等が実施主体になり、体験学習を伴う教育旅行等の宿泊体験を農家らに依頼し、協議会が「宿泊」の対価でなく、体験学習の「指導対価」を受ける場合は、地域協議会が農家に支払う経費は宿泊料に該当せず、旅館業法の適用外とする。
    【丹波新聞】

    2016年2月9日火曜日

    @大学 地方私大、相次ぎ公立化 定員割れで経営難 地元自治体が「救済」




    4月から公立化する山口東京理科大は、ホームページで「公立はうれしい」とPR


    若者の流出を食い止めようと、定員割れで経営難に陥った地方の私立大学を、地元の自治体が公立大学法人化する動きが各地で起きている。私大より学費は下がり、志願者は大幅に増えるという。しかし「大学間の公正な競争を妨げる」と懸念する声もある。今年4月から公立大学法人をスタートさせる2自治体の例から、自治体と大学のあり方を考える。
       ●国の交付金で学費半減
       山口県山陽小野田市の「山口東京理科大」は工学部の単科大学。地元自治体の協力で学校法人東京理科大(東京)が1987年に設立した短大が前身だ。95年に4年制大学となった。近年は定員割れが慢性化し、累積赤字は約90億円に上っていた。
       市成長戦略室によると、2014年7月に理科大側が「市の公立大学法人にできないか。駄目な場合は廃校も視野に入れている」と申し入れてきた。公立大学法人になると国から学生数に応じた交付金を受けられる。市の試算では、一番厳しく見積もっても公立化後の9年間は赤字にならないとの結果が出た。
       県内には国立の山口大に工学部があることもあり、市は単科大学のままでは公立化する必要性が弱いと判断し、県内初の薬学部新設を打ち出した。白井博文市長は「公立大学法人への選択こそ『地方創生』に役立つ。学費が半減し、県内唯一の薬学部が誕生すれば、進路の選択肢を増やし、市の産業力強化や定住促進につながる」(昨年1月の市民向けメッセージ)と強調。直後の昨年の入試(15年度入学者選抜)は受験生が定員200人の7倍を超えたという。市の担当者は「今年(16年度入学者選抜)は市長が高校を回り、テレビCMでもPRし、昨年以上の志願者が集まっている。卒業生の6割に県内に就職してもらうことを目指す」と話す。
       ●若者人口確保するため
       京都府福知山市の成美大学も今年4月から公立化され、「福知山公立大学」に改称する。
       成美大は学校法人成美学園が2000年に設置した京都創成大学が前身。福知山市も設置時から27億円を負担して支援し、経営情報学部のみの単独学部で運営してきた。
       開学当時は定員195人に106人が入学したが、近年は入学者が50人を下回るように。赤字決算が続き、複数の重大な問題があるとして、文部科学省の認証機関「大学基準協会」から「不適合」の判定を受けていた。学園や市民団体などの要望を受け、市が有識者会議を設置。その報告書は市内での4年制大学の存在意義を認めて公立化も一つの選択肢と判断したが、「抜本的な改革をしなければ公立化しても成功しないのではないか」との懸念も示した。
       公立化を決めた市は、市民説明会で「大学は若者人口を確保する最も効果的な装置で、地方公立大学だからこそ学生が集まる」と理解を呼び掛けた。
       新大学は「1学部、定員50人」を踏襲し、4月から学部名を「地域経営学部」に改称する。市大学政策課の担当者は「一年でも早く定員を200人に増やしたい」と話す。今年の入試では推薦入試の志願者が約6倍になるなど、定員を上回る志願者が集まっているという。
       ●補助金の国公立偏在に批判も
       文科省によると、これまでに計5私大が公立法人化された。このほか、新潟産業大(新潟県柏崎市)、長野大(長野県上田市)、旭川大(北海道旭川市)、諏訪東京理科大(長野県茅野市)などが自治体に公立化を要望している。
       こうした動きに批判的な声もある。約410大学が加盟する「日本私立大学協会」の小出秀文常務理事は「公立化して志願者が増えるのは学費が安くなるから。安易に公立大学を増やせば、努力している周辺の私立大の経営を圧迫する。国の補助が国公立大に偏っている現状や、公立大の存在意義を問う時にきている」と指摘する。【高木香奈】

      私立から公立大学法人になった大学
      大学名    所在地       開学年  公立化年
      高知工科   高知県香美市など  1997 2009
      静岡文化芸術 浜松市       2000 2010
      名桜     沖縄県名護市    1994 2010
      公立鳥取環境 鳥取市       2001 2012
      長岡造形   新潟県長岡市    1994 2014
      山口東京理科 山口県山陽小野田市 1995 2016(予定)
      福知山公立  京都府福知山市   2000 2016(予定)

      2016年1月20日水曜日

      過疎地の宝、ドローンで発見 四日市大の研究者ら撮影

       ドローン(無人航空機)を使って、過疎地域とされる「ふるさと」の観光資源を上空から探そう――。四日市大学などによる調査が、三重県いなべ市藤原町の鼎(かなえ)地区であった。さて、空から見たふるさとの姿は?
       鼎は約50戸、住民約120人、小学生は5人と市内で最も過疎化が進む地区の一つ。「調査と聞いた時はプライバシー侵害などを心配した」と自治会長の伊藤憲朗さん(62)は打ち明ける。でも、実際に空からの映像を見て感激した。「地上の景色がきれいで驚いた。ふるさとも捨てたもんじゃないなと」
       豊かな自然を生かす「グリーンツーリズム」で過疎地を元気にしようとする市などの調査の一環で、四日市大の研究者らが9日、実施した。担ったのは、同大環境情報学部の千葉賢教授(59)、同大自然環境教育研究会監事で歴史文化研究家の長谷川博久さん(66)とドローンに詳しい総合地球環境学研究所(京都)の渡辺一生さん(37)。
       ログイン前の続き藤原岳を西に望む野山の中腹の採石場や三重用水の中里ダム、梅林公園の3カ所でドローンを飛ばし、撮影した。ダム湖に顔を出すかつての山々の頂は空から見ると、まるでリアス式海岸のように美しい。
       採石場の調査地には、昨年の地元調査で四日市大の学生が住み込みの世話になった西脇敬三さん(67)、かづゑさん(70)夫妻と、孫の昇汰朗君(11)、侑里さん(9)もやってきた。西脇さんは初めて見る本格的なドローンにびっくりしながら、「若い人が来てくれることはうれしいです」と調査に期待する。
       いなべ市は、藤原町の鼎、篠立、古田と北勢町の川原、二之瀬の計5地区をグリーンツーリズムの対象とする。いずれも岐阜や滋賀との県境。京都産業大学も協力し、調査自体は2019年度まで続くが、並行して、新年度からは各地区の観光資源を生かす取り組みに入りたいという。
       伊藤さんは、地元の観光資源として「鼎塚(かなえづか)」に期待する。1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで、西軍の島津義弘軍が敵中突破を図って郷里の薩摩まで逃げ延びた有名な逸話がある。その途中で鼎地区を通り、この地で命運尽きた家来を弔った塚だ。
       文化や歴史に詳しい長谷川さんも「最終的には郷里へ帰る夢をかなえた途中の地で、まだ広くは知られていない塚。観光資源として申し分ない」と話す。
       ドローン調査を発案した千葉教授には、観光資源を探す目的だけでなく、もう一つの思いがあった。「新しい角度でふるさとを見てもらうことで、過疎で自信を失いがちな人たちに元気になってほしいんです」(中根勉)