住宅の空き部屋などに旅行者を有料で泊める民泊解禁の行方が怪しくなってきた。政府の検討会が解禁に向けたルール案をまとめたものの、年間営業日数の上限が決まらない。霞が関からは「法案提出は秋の臨時国会に間に合わないのではないか」との声も漏れる。
■旅館業界VS住宅業界
争点となっている民泊の営業日数を巡っては旅館業界と民泊の担い手として名乗りを上げている住宅業界が激しく対立している。
「公正な競争条件を保てない」。旅館業界は営業日数を年30日までに制限するよう主張。これに対し住宅業界は「日数制限があるならビジネスとしての参入は不可能」(全国賃貸住宅経営者協会連合会)と真っ向から対立。民泊のネット仲介を視野に入れるIT(情報技術)企業の経営者を中心にした新経済連盟も「日数制限を設けるのは断固反対」と加勢した。
「180日以下の範囲内で適切な日数を設定」。規制改革会議が5月に出した結論は「足して2で割る」式の玉虫色の文言に収めたが決着にはほど遠い。事情を知る関係者は「住宅業界のロビー活動に危機感を抱いた旅館業界が、日数制限なしという結論になるのを避けるため、ひとまず妥協したように見せかけただけだ」と話す。そして旅館業界は6月に入って「二の矢」を放った。
「規制緩和の前に、まず取り締まりから始めなくてはならない」。民泊のルールが大筋で固まった6月上旬、反対ののろしをあげたのは自民党の重鎮、伊吹文明・元衆院議長だった。
旅館業法の許可を得ないヤミ民泊の存在を改めて問題視した。議論を振り出しに戻すような言いぶりに、国土交通省幹部は「営業日数の議論では簡単に妥協しないというサインだ」と解説する。
伊吹氏は理容、美容やクリーニング、浴場、旅館などに影響力がある自民党生活衛生議員連盟の会長をつとめる厚労族のドン。重鎮の「鶴の一声」で議論が巻き戻り民泊解禁の行方が見えにくくなった。
■源流は昭和20年代
なぜ旅館の話に厚労族が口を挟むのか。厚生労働省が旅館やホテルの監督官庁だからだ。ではなぜ観光ビジネスには縁遠く見える厚労省が所管しているのか。話は昭和20年代にさかのぼる。
旅館業法 | 通訳案内士法 | |
---|---|---|
施行 | 1948年 | 1949年 |
目的 | 公衆衛生及び国民生活の向上に寄与する | 外国人観光旅客に対する接遇の向上を図り国際観光の振興に寄与する |
主な内容 | 旅館やホテルの設備や衛生の基準を定める | 報酬を得て通訳ガイドをする場合、国家資格が必要 |
問題点 | 住宅を使った民泊に対応せず。ホテルと旅館の区分もあいまいに | 英語を話す都市部のガイドに偏っている。観光客のニーズも多様化 |
「多数の人の集合・出入りする場所の衛生上の取り締まりは軽視することのできない問題であるので、この際、統一的な法律を制定してその徹底・強化を図る」。1948年(昭和23年)、参院厚生委員会で当時の竹田儀一厚生相が旅館業法案の趣旨説明をした。
当時は戦後の混乱期で衛生状態が悪かった。不特定多数の人が出入りする旅館は感染症の温床。衛生管理が最優先課題だった。
古い法律だけに時代にあわない部分も目立つ。例えば、ホテルと旅館では客室床面積の規定が異なる。ホテルは洋式、旅館は和式の設備を前提にしているためだが、いまはベッドを備えた旅館など和洋折衷も珍しくない。
戦後にできて実態に合わなくなった法律はほかにもある。通訳ガイドの業務独占を定めた通訳案内士法も1949年に施行された。当時の外国人旅行者は進駐軍の将兵や家族で、訪日客は年数千人にすぎなかった。日本語が分からない外国人を相手にした詐欺まがいの業者を防ぐ狙いだったが、観光客のニーズが多様化し「量と質の両面で対応できないことが明白」(規制改革会議)と指摘されている。
日本は訪日客が年2000万人も訪れる国になった。旅館業法や通訳案内士法などの「戦後レジーム」から脱却しなければ、観光大国への飛躍は望めない。(木原雄士)
0 件のコメント:
コメントを投稿