2012年12月29日土曜日

福島原発周辺「緑のオーナー」に10年延長要求 林野庁

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緑のオーナー制度の仕組み
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原発周辺の「緑のオーナー制度」の状況

 【貞国聖子】国有林の育成とともに財産形成ができるとうたい林野庁が出資を募った「緑のオーナー制度」で、東京電力福島第一原発周辺の森林について同庁が満期を迎えた出資者に対し、10年間の契約延長を求めていることがわかった。事故の影響で伐採、販売の見通しが立たないことを理由に挙げているが、出資者からは「延長しても価格が下がるだけだ」と反発が出ている。
 出資者の福島県楢葉町は、契約延長で損害を被ったとして東電に賠償請求することも検討している。
 緑のオーナー制度は、スギなどの国有林に1口50万円(一部は25万円)を出資して国と共同所有し、20~30年ほど後に伐採、販売して得られた収益の分配を受ける仕組み。
 契約延長の対象になっているのは、原発事故で警戒区域と計画的避難区域になった地域(一部再編済み)の森林。林野庁の関東森林管理局によると、福島県の南相馬市、楢葉町、富岡町、浪江町、葛尾村、飯舘村の15カ所計約50ヘクタールで、出資者(オーナー)は楢葉、富岡両町と、個人延べ170人。出資額は計1億2375万円という。
 林野庁は震災後、このうち契約満期を迎えた24オーナーに10年延長を文書で求めた。いずれも同意したという。今後満期を迎えるほかのオーナーにも契約延長を順次求めていく。
 同庁によると、通常は満期になると、入札を経て伐採、販売するか、オーナーが希望すれば国が有識者でつくる委員会の意見を聞いて決めた額で買い取る。
 しかし、同庁は警戒区域などの森林については買い取らないことにした。理由として、現地調査ができないことや、民間による区域内の木材取引価格が定まらず買い取り額を算定できないことを挙げている。
 制度では1年ごとの延長もできるが、同庁は「見通しが示せないので、とりあえず10年間の延長をお願いせざるを得ない」と説明。10年延長した場合、契約途中の買い取りも難しいとしている。
 楢葉町は1985年に町内の5ヘクタールを約964万円で契約。来年3月に満期を迎える。同庁から10年延長を求められ、「事故の影響で現地調査に入れず、清算には1年以上かかる。入札してもいくらで取引されるかわからない」と説明を受けたという。同町は8月に警戒区域が解除されて立ち入りが可能になったが、同庁は木材取引価格を決められないことも理由にあげている。町は「延長しても価格は下がるだけで、本当は買い取ってほしいが、ほかに方法がない」と困惑する。
 富岡町は町内の3.2ヘクタールを約477万円で契約。満期を迎えるのは17年で、延長についてはまだ打診がないという。
     ◇
 緑のオーナー制度では、満期で受け取る額が出資額を下回る「元本割れ」が全国で問題となっている。
 林野庁は1984年度からオーナー(出資者)の募集を開始。しかし、木材価格の下落を背景に元本割れが起きた。問題が表面化した後の99年度から同庁は「対象森林が減少した」として募集を中止。99~06年度に満期を迎えた契約の9割以上が元本割れだったという。
 現在も多くの契約で元本割れしており、受取額が元本の4割以下にとどまるケースもある。
 募集が中止される前の98年度までに延べ約8万6千の個人・団体がオーナーになり、出資額は計約500億円。対象森林の面積は、東京ドーム約5340個分に当たる約2万5千ヘクタール。
 林野庁が募集の際に元本割れのリスクを知らせず契約を結ばせたことも問題になった。全国の出資者242人が09年以降、国に計約5億円の損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こし、裁判が続いている。

朝日新聞 2012年12月29日20時37分

2012年12月27日木曜日

〈人生の楽園〉農家民宿=鹿児島県薩摩川内市

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「ログハウスって人類の原点の家という感じがする」という濱田恭平さんと、伊津子さん=鹿児島県薩摩川内市
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鹿児島県薩摩川内市
■丸太の家、夫婦で開墾 濱田恭平さん(68)、伊津子さん(67)
 アルプスの少女ハイジになったみたい――そんな気分を味わえるのが濱田恭平さん、伊津子さん夫妻が鹿児島県薩摩川内(せんだい)市で経営するログハウスの「ファームロッジ濱田」だ。丸太は直径30センチ以上もあるカナダ産の赤杉、煙突つきのストーブ、山小屋風のとんがり屋根の天窓からは、きらめく星空を見られる。
 恭平さんは薩摩川内の出身。「出身地に戻り、ログハウスで自給自足的な生活を楽しみたい」というのが、千葉でサラリーマン生活をしていたころからの夢だった。きっかけは折り込みのログハウスのチラシだった。展示場などで見て回った物件は20軒近く。専門誌で建築費やデザインなどを研究した。
 ログハウスでの暮らしに備え、千葉時代も畑を借り、野菜を栽培した。学生時代には狩猟免許も取っていた。しかし、不況で会社の経営が厳しくなり、ストレスで1年ほど病気を患い、58歳で退職。「自殺を考えるほどつらかったが、乗り越えれば大きな夢がかなうよと妻に励まされた」と恭平さん。
 ハウスの建築費は約5千万円、約67アールの土地代は約500万円。退職金と貯金をあて、残りの1500万円はローンを組んだ。テーブルやいすは丸太の残りで作ったものだ。「木立の中で暮らしているみたい。でも夏は涼しく、冬は暖かいんですよ」と伊津子さんは満足げ。
 購入した土地は荒廃していたが、チェーンソーで木を切り、草を刈り、夫婦で1年がかりで開墾して畑にした。昨夏に農家民宿をオープンした。
 今は畑にハクサイやキャベツ、ポンカンなど、約40種類の野菜や果物が育つ。自家製の野菜や、狩猟したカモやイノシシなど野生鳥獣の肉を使ったジビエ料理を客にふるまう。川内川でアユやウナギを釣ることも。
 将来は、ピザ窯や露天風呂も作りたい、と夫妻の夢は続く。
(文と写真・山根由起子)
    ◇
■宿 薩摩川内市東郷町斧渕1033(電話0996・42・1201)。鹿児島空港からシャトルバスで川内駅まで約75分。博多駅からは九州新幹線「さくら」で最速1時間11分。川内駅からの車の送迎有。約15分。1泊2食6500円、4歳~小学生は4千円。客室は2部屋。
■家族 恭平さんと伊津子さんはお見合いで結婚。3男に恵まれた。現在は2人暮らし。10羽の鶏、2匹の犬、1匹のイノシシもいる。
■農業体験 蒸しパン作り、ソバや小麦の植え付けと収穫、魚釣り、サツマイモ掘り、ミカン狩り、ブルーベリー収穫など。
■満足度 会社員時代は60点、現在は90点。

朝日新聞 2012年12月27日10時15分

2012年11月10日土曜日

〈民意のありか:1〉領土、振り回される島

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「日本国最西端之地」の石碑。日本で一番最後に見られる夕日が沈む=10月13日、沖縄県与那国町、富田祥広撮影
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与那国島と台湾の地図
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日本最西端の岬、沖縄・与那国島の西崎(いりざき)。日本で一番最後に見られる夕日が沈む=10月12日、沖縄県与那国町、富田祥広撮影

 【富田祥広】尖閣諸島の領有権をめぐり日中両国のせめぎ合いが続く。こと領土問題となると、開戦前夜のような勇ましい声が一部であがる。出口はないのか。台湾を望む国境の島、沖縄・与那国島を歩きながら、考えた。
 台湾まで西へ111キロ、日本最西端の与那国島。10月半ば、日本で一番最後に沈む夕日を背に、岬から漁港を見下ろした。主がいない漁船がぽつんぽつんと岸につながれていた。
 「漁には行けん。商売もできん。なのに補償はなんもない。飢え死にしろと言うのと同じさ」。地元の漁師、中島勝治さん(46)は言葉に怒りを込めた。
 尖閣諸島の周辺はハマダイなど高級魚の好漁場だ。だが、9月の国有化以降、中国の監視船が繰り返し姿を見せ始めた。捕らえられるのではと不安になり、近づけなくなった。「収入は3割以上減った」
 漁師たちには16年前の記憶がよみがえる。1996年3月、台湾の総統選挙を前に中国がミサイルを威嚇発射。一つが台湾を越えて与那国島の60キロ沖に着弾し、漁に出られなくなった。「本土の安全な所にいる人たちが大声出すのは勝手だけど、こっちは生活と命がかかってるんだ」
    ◇
 《自衛隊基地ストップ》 《自衛隊誘致は悲願》
 周囲約27キロの島のあちこちに、与那国町が国に要請する自衛隊配備をめぐる賛否の横断幕がはためく。
 父を沖縄戦で亡くした安里与助さん(70)は「島に武器が入ると攻撃対象になる」と反対する。台湾との交易を再び盛んにし、島を活性化するには緊張を高めるべきでないと思う。賛成の金城信浩さん(68)は「自衛隊員と家族が来れば過疎に歯止めがかかる」。父は安里さんの父と同じガマ(壕(ごう))で戦死した。もちろん反戦だが、かつて1万人以上だった人口が約1600人まで減った島の将来に危機感が募る。「人がいなくなれば町も国も成り立ちません」
 ただ、2人とも、尖閣諸島をめぐる日中のあつれきは距離を置いて見ていた。安里さんは「騒ぎ立てるほど相手を刺激する。互いに干渉しないほうがいいのでは」。金城さんは「結果的に両国とも国益を損ねていると思う」と言った。
    ◇
 島の名産、アルコール度数60度の泡盛。与那覇有羽(ゆうう)さん(26)は自宅で瓶にラベルを貼っていた。酒造会社の下請け仕事で生計を立てながら、祭りや祝いの行事で三線(さんしん)を弾く。
 中学卒業後、沖縄本島で琉球芸能を学んだ。「文化にとって民族意識ってすごく大事。自分が誰なのかを忘れない原点ですから」
 尖閣問題をどう考えるか彼に尋ねると、しばらく言葉を探し、続けた。
 「それでも、民族意識みたいなのを守るために争ってはだめ。違う文化が出会って、また新しい文化が生まれてきたんですから。閉じこもらず、心開いて」
 戦前、台湾は500キロ離れた那覇よりずっと身近な都会だった。当時を知る池間苗さん(92)を訪ねた。
 「昔は台湾から人がたっくさん来た。にぎやかだった」。港には台湾料理店が並び、台湾の行商が砂糖や衣服を売りに来た。修学旅行や出稼ぎ先も台湾。国境線が引かれた戦後もしばらく、密貿易が続いた。
 「また台湾と自由に行き来できませんかね。中国とも仲良くして。私たちずっと、お隣なんですから」
    ◇
 解散・総選挙の足音が聞こえてきました。政治をめぐる状況は混沌(こんとん)とし、経済の先行きも見通せません。一方で、民主主義を見つめ直そうという動きも。私たちはどこへ向かおうとしているのでしょうか。記者が各地を歩き、「民意のありか」を探します。
    ◇
 〈領土をめぐる最近の動き〉 東京都知事だった石原慎太郎氏が4月、尖閣諸島の購入計画を表明。野田佳彦首相は7月に国有化方針を示し、9月に国有化した。領有権を主張する中国では各地で反日デモが激化し、「愛国無罪」を叫ぶデモ隊などが日系企業を焼き打ちするなど暴徒化した。韓国の李明博(イミョンバク)大統領は8月、日韓両国が領有権を主張する竹島に現職大統領として初めて上陸。日韓関係は冷え込んだ。

2012年9月17日月曜日

原発避難者の移住・保養支援で全国の団体が連携、協議会設立

 

「福島の方々が気軽に足を運べる『週末保養センター』のような場所が必要では」と語る共同代表の佐藤さん
 福島第1原発事故に直面した福島県の人々を、保養や移住の受け入れ態勢を充実させることで支えようと、支援団体が連携して「311受入全国協議会(略称・うけいれ全国)」を発足させた。保養などに関する情報を発信するほか、中長期的な視点で避難者や避難を望む家族の受け皿づくりを考える。共同代表の一人には、避難者を多く受け入れる山形県から、山形市のNPO「毎週末山形」代表佐藤洋さん(44)が就いた。

 「うけいれ全国」には田沢湖のびのびキッズプロジェクト(秋田)、東北ヘルプ(宮城)など東北の支援団体をはじめ、北海道から九州まで全国の20団体が参加。4日に東京で記者会見を開いて設立を表明した。
 当面は(1)受け入れ情報の共有と、保養・移住希望者のニーズに合った情報の提供(2)保養データベースの運用(3)保養の質の向上(4)被災地や避難先での相談会開催-などを柱に活動を展開する。
 これまでは、避難者受け入れや保養の取り組みを束ねる全国規模の組織がなく、連携強化を求める声が強まっていた。今後、賛同する団体に参加を呼び掛ける。
 共同代表は3人制で、佐藤さんは東北を代表する。山形県内では現在、約1万2000人の避難者が暮らす。福島から数日間の保養に来る人も多く、「毎週末山形」は週末を利用した保養企画などを手掛けている。
 佐藤さんは「苦悩する福島の方々の真のニーズが、山形は最も可視化されている。ニーズを全国に発信し、避難者に寄り添おうとする思いと行動をつないでいきたい」と決意を語る。
 支援関係者らによると、原発事故から1年半がたち、福島県内では「避難や保養を表立って言い出しにくくなった」「福島を離れて暮らしていることに負い目のようなものを感じる」といった声が聞かれるという。
 うけいれ全国は状況の変化に配慮し、きめ細かな対応を目指す。佐藤さんは「受け入れに取り組んできた全国のノウハウをつなぎ、持続していける態勢を整えていきたい」と話している。


2012年8月1日水曜日

高校生作った「那須かるた」、商品化へ 栃木


写真・図版発売される「那須かるた」。左から大野愛教諭、文芸部長の栄秋穂さん、リゾート観光科長の田中直行教諭=那須町の那須高校


 那須町寺子乙の県立那須高校(生徒数426人)の生徒たちが作った郷土を紹介する「那須かるた」が、観光土産品として8月下旬にも商品化されることになった。地域の歴史や名所などを題材にしたのが高い評価を受け、「那須ブランド」にも認定された。

 同校は、統一テーマとして地域貢献教育の「観光プラン」を進めている。地域に役立つ実践教育でもある。

 「那須かるた」もそのひとつ。県内の県立高で唯一のリゾート観光科の生徒が中心となって、かるたに登場する名所など観光資源を選定し、文芸部が読み札の文句を考えた。絵札のデザインは美術部が担当するなど、みんなで力を合わせて昨年3月に完成した。

 那須の自然や名所旧跡、歴史を5・7・5の文字数を基本に44枚の読み札で紹介する。「あ」の「あたたかさ 人に与える 那須ことば」で始まり、「わ」の「わが故郷 那須のよさ知る 那須検定」まで。美しい風景なら「リンドウは 心を癒(いや)す 那須の花」と語り、歴史なら「目もくらむ 美女の正体 九尾の狐(きつね)」などとなっている。

 読み札の裏面には、名所や歴史の解説文も記され、楽しみながら那須のことが分かる。カラーの絵札も力作だ。200セット作り、町内の小中学校や幼稚園などに配った。

 今月5日の「なすまち子どもフェスティバル」でも、昨年に続いて「那須かるた大会」が開かれる。

 那須ブランドは、商工会や観光協会など町経済四団体推進連絡協議会が2008年から認定しており、今年で5回目。8点の応募の中から5点が選ばれた。これまでに43品目が受けている。

 発売するのは観光施設運営の第三セクター「那須未来」。1セット千円で、道の駅那須高原友愛の森などで取り扱いを始める予定。

 製作の中心になった当時の2、3年生は卒業したが、読み札に携わった文芸部長の栄秋穂さん(3年)は「那須の歴史など知らないこともあり、勉強しながらで難しかった。努力が実ってうれしい」と話している。

(人見正秋)

2012年7月28日土曜日

戻れぬ福島を思う苦しみ 〈母子避難と向き合う〉

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中村美紀さん
■山形避難者母の会代表 中村美紀(なかむら・みき)さん
 福島県郡山市から山形市に避難して1年以上が経ちました。私の判断は間違っていなかったか、福島に残る大切な人たちを、県外避難という行為で傷つけていないか、ずっと自問自答してきました。福島に戻りたいが、まだ戻れない。自分が「戻れない」と言う場所に夫や親、親戚、友人たちが住んでいる。その事実がずっと私を苦しめてきました。
 福島で生まれ育ち、結婚し、子どもを産み、骨を埋めよう。そう思っていた一人です。故郷が恋しくて仕方ありません。家族と夫と暮らしたい。
 長女(9)、次女(5)、三女(2)と昨年3月に茨城県にいったん避難し、一度郡山に戻りましたが、長女に鼻血や口内炎など心配な症状が出ました。山形県が自主避難者を受け入れ始めていたので、山形市に避難しました。すぐに福島からの避難者約100人のメーリングリストに加わりました。
 福島では放射能の話はできませんでした。洗濯物を外に干してる? 福島産品を食べてる? そんな会話で互いの考えを探り合うしかなかった。避難者同士メールでやりとりすると、直接会いたくなった。ただ一言、「大変だったね」と言ってほしかったんです。会うと、それだけで涙が出ました。「放射能怖いよね」「当たり前だよね」と、やっと言えました。
 今年5月には交流拠点「ふくしま子ども未来ひろば」を立ち上げました。資格をもった母親が多く、託児をし、読み書きも教え、助け合っています。
 福島県に残っているお母さんだって不安はあります。子どもを週末などに県外や線量の低い地域に行かせる「週末保養」は疲れるかもしれませんが、思いきり深呼吸し、リフレッシュできます。1週間のうち数日だけでも放射能によるストレスから解放されれば、避難しなくても家族一緒に暮らせます。
 避難が長期化すると、子どもは土地になじみ、帰りたがらないかもしれない。年齢によっては福島を覚えていないかもしれない。定住する人、帰る人、これから分かれていくでしょう。
 山形県への避難者は、いずれは福島に帰ることが前提です。家族や知人、福島の様子が気になるから、隣の県にとどまっている。県外へ避難した人たちと福島をつなぐこと、双方の気持ちを伝えること。それが県外に出ることができている私たちの役割だと思っています。
 県外に避難する、福島にとどまる。どちらの選択も肯定すべきだと思います。それができて初めて福島の復興がある気がします。ストレスなく普通に暮らしたい。その思いは一緒です。
 娘たちの未来が、福島の明日が、今よりもよいものになるように、大人として責任を果たしたいと思っています。(聞き手・西村隆次)
     ◇
 75年、福島市生まれ。栄養士資格を持ち、料理教室などで教えている。「山形避難者母の会」代表。今年5月、福島からの避難者の交流拠点をJR山形駅近くに開いた。

朝日新聞 2012年7月28日03時00分

2012年6月20日水曜日

脱原発、山里で誓う 鳥取・智頭へ移住の2家族

朝日新聞デジタル版(2012年6月20日)


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・・・さん一家。「横浜での暮らしは、息をひそめている感じだった。もっと早く来ればよかった」=智頭町八河谷
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上野さん一家。「何のつてもなく引っ越したけど、近所の人が声をかけてくれて、受け入れてくれる。住めば都です」=智頭町八河谷

原発を離れ、田舎へ――。この春、幼い子連れの2家族が、関東や関西から鳥取県智頭町の山あいにある八河谷(やこうだに)地区に移住した。東日本大震災による原発事故をきっかけに、「原発頼みの便利な暮らしを脱したい」と、田舎暮らしに踏み切った。

八河谷地区は、町の中心部から車で約20分。山に囲まれた20世帯40人ほどの小さい集落で、住人の多くが60歳以上だ。
・・・さん(41)、・・さん(42)夫婦は4月下旬、長男・君(5)を連れて横浜市から転居した。それまで自営でやっていた自動車整備の仕事は廃業した。「迷いはなかった」と夫婦は口をそろえる。

昨年3月の原発事故から、放射能汚染を心配して食事に気をつかうようになった。材料の生産地が分からない食べ物を避けて外食が減り、保育園に通う・君にはお弁当を持たせた。
周囲からは過剰反応と思われ、両親や友人と食事に行くのもおっくうになった。「まるで変人扱いで、気持ちを分かってもらえないのがつらかった」と・・さん。次第に、原発に頼って過剰にエネルギーを消費する社会のあり方に、疑念が強まった。「原発に頼らない暮らしをしたい。でも、都会にいながら生活を変えることはできない」。夫婦は移住を決めた。

何の縁もない八河谷を選んだのは、「直感だった」と・・・さん。いずれの原発からも遠い場所をと、鳥取県東部に絞って移住先を探した。事前連絡なしで町役場を訪ねたとき、職員がすぐに対応してくれ、案内されたのが八河谷だった。

初めての田舎暮らしだが、「毎日おもしろすぎて」と、表情は晴れ晴れしている。高齢者ばかりの地元住民に助けられ、勇気づけられるという。

「ここでは80代の人も毎日畑仕事をして、自立している。何かに頼らずに生きようとする彼らの姿勢は、勉強になる」。直裕さんは近所の人に教わりながら、農業を勉強中だ。生活が安定するまでは、淳子さんのアルバイトや貯金を切り崩しながら、やりくりしていくという。
上野俊彦さん(32)は3月下旬、妻啓江(よしえ)さん(31)、長女澪莉(みおり)ちゃん(2)を連れて、大阪市から転居した。昨年3月の東日本大震災までは、仲間と群馬県で農場を経営していた。 
昨年3月15日、農場長から「手元の線量計の針が振り切れた」と電話が入った。その日のうちに群馬を離れ、俊彦さんの実家がある大阪に避難した。
もともと、田舎暮らしがしたくて大阪から群馬に引っ越した。大阪に戻り、新たな移住先を探した。「子どもは山の中で育てたい」との思いから、雑誌に載っていた智頭町の「森のようちえん」の記事が目にとまった。役場で八河谷の空き家を紹介され、入居を決めた。

「決め手は子どもだった」と俊彦さん。チェルノブイリ原発事故で被曝(ひばく)した子どもたちの写真を見て、娘の姿が重なったという。啓江さんは、「同じにはならないかもしれないけど、どっちに転んでも安全な方を選びたかった」と話す。

八河谷では、畑づくりに大忙しの日々。農業で生計を立てるつもりだ。俊彦さんは、「自然の中での暮らしは気持ちよくて、体が喜んでいる」。

定住支援を担当する町企画課の西川公一郎さんは、「東日本大震災以降、問い合わせが増えている。原発を避けて来る人は、今後も増えるだろう」と話す。千葉県からも新たに1世帯7人が、転入を検討しているという。
(村井七緒子)

2012年5月27日日曜日

丹波山村教育長・柳場正喜さん


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村を歩き、畑仕事の人たちとも対話を重ねている
■教育にも感謝の心を
 村の小学校は新入生が1人だけで、2年生以上は12人。中学生は全員で8人。保護者から「同級生が少ない。将来、大勢の中でやっていけるでしょうか」と不安の声が届く。少子化が極まる丹波山村でこの春、甲府市の岡島百貨店の元店長に、教育長の重責が託された。
 まず村への「親子留学」制度を立て直す考えだ。村外から引っ越してきた家族が家賃月額1万5千~2万円の住宅に住み、子が村の小中学校に通う。1992年に始まり、留学生は最多で13人になったが、ここ数年は1人もおらず逆戻りしている。
 村は今年度から給食・教材・修学旅行費などを無償化した。「マンツーマンで先生と話す機会も多い」。恵まれた教育環境に関する情報発信を強め、自然志向の親子を再び呼び込む考えだ。ただ、重い課題は親の雇用の場の確保。教育内容も「丹波山留学に独特の魅力をもっとつくりたい」。例えば英語教育を重視しようかと検討中だ。
 都留文科大卒。中学と高校の国語の教員免許を取得したが、高度経済成長下のサービス業に魅力を感じ、岡島に就職。営業推進部長や店長を務めた。2009年に退職。山梨市の自宅でブドウや桃を栽培していたが、百貨店時代の縁で丹波山村から声がかかった。
 「百貨店は頭を下げないとお客さんが来てくれない。お客さんとの対話が力になり、感謝の気持ちを忘れないことを身につけた。これを子どもたちの教育に少しでも役立てたい。社会では学力とともに、礼儀作法も大切。きちっとあいさつができる子を育てたい」
 丹波中学校で昨年度から、専門家を招いて地元の問題解決を話し合う授業がある。生徒から「自然の豊かさを生かし、産業を誘致したい」「山歩きのリピーターを増やしたい」などと意見が出る。村内の雇用に関する関心がとくに高いという。
 「高校になると村を出て、都立に入る場合は住所も移す。それだけに中学生たちは、村を良くしたいという郷土への思いが強い。一緒に村おこしをし、できれば村で結婚し、子どもも産んでみたいという心の葛藤(かっとう)も感じる。生徒たちの意見を、村の将来に向けてのスタート台にしたい」(村野英一)

2012年5月1日火曜日

焦点/被災地ツーリズム拡大/震災語り部、伝える真実

 

観光協会が仮設商店街に設けた施設で写真パネルなどを見学するツアー参加者=4月21日、宮城県南三陸町志津川
 「復興を応援したい」「経験を防災に生かせないか」。さまざまな思いを胸に、東日本大震災の被災地を訪れる人が増えている。ツアー参加者は今も深い爪痕を残す津波の猛威に圧倒され、住民の過酷な体験に涙する。宮城県南三陸町で中心となってツアーを受け入れている町観光協会は、共感の広がりが、繰り返し町を訪れるリピーター獲得にもつながると期待している。

◎参加者、ため息・涙・絶句/地元「学びの場として訪れて」

 「左手に見えるのが戸倉小です。子どもたちは近くの高台に逃げ、この世の地獄を見ながら寒い一夜を明かしました」
 町中心部が津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町を4月21日、バスツアーが訪れた。鉄骨がむき出しとなった戸倉小体育館のそばで停車し、地元の震災語り部ガイドの菅原清香さん(60)が震災当日を振り返ると、車内からはため息が漏れた。
 ツアーはJTBグループが扱い、全国から個人旅行者10人が参加した。南三陸のほか、岩手・平泉や宮城・松島、山形・山寺を2泊3日で回るプラン。南三陸町でのプログラムには町観光協会が協力し、津波浸水地域を3時間かけてじっくりと回った。
 「あぁ…」。大破した船や、患者が大勢亡くなった病院を目の当たりにして言葉を失う参加者。「家族を亡くし、まだ家から一歩も出たくない人も大勢いる」。菅原さんが体験を交えながら話すと、涙ぐむ人もいた。
 被災地の住民感情に配慮し、仮設住宅の前ではバスから降りない。犠牲者が多数出た防災対策庁舎などを巡る際も、原則として車窓から見るにとどめる。一行は志津川地区の仮設商店街に移動して、被災の実情を伝えるスライドや写真パネルを見学した後、海産物などの買い物を楽しんだ。
 京都府宇治市から夫婦で訪れた建築士桂浩子さん(49)は「被災地を訪れるのは不謹慎でないかと迷いもあった。個人では不安なためツアーに参加した。買い物をして少しでも復興のお手伝いができればいい」と話した。
 友人3人と訪れた愛知県稲沢市の喫茶店経営水谷愛子さん(68)は「『百聞は一見にしかず』。帰ったら知人に実情を伝え、機会があればまた来たい」と語る。
 震災体験を話す語り部を務めるのは、町内の「ガイドサークル汐風」のメンバー。団体の視察なども含め依頼が相次いでおり、6月までは予約でいっぱいという。
 町観光協会の及川和人さん(31)は「震災で何を失い、何を学んだのか、ガイドが町民だから重みを伝えることができる。学びの場として訪れてほしい」と強調した。
 産業の柱だった観光の復活は町の復興に欠かせない。「今後は漁業体験などを組み合わせ、積極的な情報発信も検討する。ツアー客に繰り返し足を運んでもらうよう努力したい」と及川さん。将来の観光需要を支えるリピーター拡大に意欲を見せる。