2012年5月27日日曜日

丹波山村教育長・柳場正喜さん


写真
村を歩き、畑仕事の人たちとも対話を重ねている
■教育にも感謝の心を
 村の小学校は新入生が1人だけで、2年生以上は12人。中学生は全員で8人。保護者から「同級生が少ない。将来、大勢の中でやっていけるでしょうか」と不安の声が届く。少子化が極まる丹波山村でこの春、甲府市の岡島百貨店の元店長に、教育長の重責が託された。
 まず村への「親子留学」制度を立て直す考えだ。村外から引っ越してきた家族が家賃月額1万5千~2万円の住宅に住み、子が村の小中学校に通う。1992年に始まり、留学生は最多で13人になったが、ここ数年は1人もおらず逆戻りしている。
 村は今年度から給食・教材・修学旅行費などを無償化した。「マンツーマンで先生と話す機会も多い」。恵まれた教育環境に関する情報発信を強め、自然志向の親子を再び呼び込む考えだ。ただ、重い課題は親の雇用の場の確保。教育内容も「丹波山留学に独特の魅力をもっとつくりたい」。例えば英語教育を重視しようかと検討中だ。
 都留文科大卒。中学と高校の国語の教員免許を取得したが、高度経済成長下のサービス業に魅力を感じ、岡島に就職。営業推進部長や店長を務めた。2009年に退職。山梨市の自宅でブドウや桃を栽培していたが、百貨店時代の縁で丹波山村から声がかかった。
 「百貨店は頭を下げないとお客さんが来てくれない。お客さんとの対話が力になり、感謝の気持ちを忘れないことを身につけた。これを子どもたちの教育に少しでも役立てたい。社会では学力とともに、礼儀作法も大切。きちっとあいさつができる子を育てたい」
 丹波中学校で昨年度から、専門家を招いて地元の問題解決を話し合う授業がある。生徒から「自然の豊かさを生かし、産業を誘致したい」「山歩きのリピーターを増やしたい」などと意見が出る。村内の雇用に関する関心がとくに高いという。
 「高校になると村を出て、都立に入る場合は住所も移す。それだけに中学生たちは、村を良くしたいという郷土への思いが強い。一緒に村おこしをし、できれば村で結婚し、子どもも産んでみたいという心の葛藤(かっとう)も感じる。生徒たちの意見を、村の将来に向けてのスタート台にしたい」(村野英一)

2012年5月1日火曜日

焦点/被災地ツーリズム拡大/震災語り部、伝える真実

 

観光協会が仮設商店街に設けた施設で写真パネルなどを見学するツアー参加者=4月21日、宮城県南三陸町志津川
 「復興を応援したい」「経験を防災に生かせないか」。さまざまな思いを胸に、東日本大震災の被災地を訪れる人が増えている。ツアー参加者は今も深い爪痕を残す津波の猛威に圧倒され、住民の過酷な体験に涙する。宮城県南三陸町で中心となってツアーを受け入れている町観光協会は、共感の広がりが、繰り返し町を訪れるリピーター獲得にもつながると期待している。

◎参加者、ため息・涙・絶句/地元「学びの場として訪れて」

 「左手に見えるのが戸倉小です。子どもたちは近くの高台に逃げ、この世の地獄を見ながら寒い一夜を明かしました」
 町中心部が津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町を4月21日、バスツアーが訪れた。鉄骨がむき出しとなった戸倉小体育館のそばで停車し、地元の震災語り部ガイドの菅原清香さん(60)が震災当日を振り返ると、車内からはため息が漏れた。
 ツアーはJTBグループが扱い、全国から個人旅行者10人が参加した。南三陸のほか、岩手・平泉や宮城・松島、山形・山寺を2泊3日で回るプラン。南三陸町でのプログラムには町観光協会が協力し、津波浸水地域を3時間かけてじっくりと回った。
 「あぁ…」。大破した船や、患者が大勢亡くなった病院を目の当たりにして言葉を失う参加者。「家族を亡くし、まだ家から一歩も出たくない人も大勢いる」。菅原さんが体験を交えながら話すと、涙ぐむ人もいた。
 被災地の住民感情に配慮し、仮設住宅の前ではバスから降りない。犠牲者が多数出た防災対策庁舎などを巡る際も、原則として車窓から見るにとどめる。一行は志津川地区の仮設商店街に移動して、被災の実情を伝えるスライドや写真パネルを見学した後、海産物などの買い物を楽しんだ。
 京都府宇治市から夫婦で訪れた建築士桂浩子さん(49)は「被災地を訪れるのは不謹慎でないかと迷いもあった。個人では不安なためツアーに参加した。買い物をして少しでも復興のお手伝いができればいい」と話した。
 友人3人と訪れた愛知県稲沢市の喫茶店経営水谷愛子さん(68)は「『百聞は一見にしかず』。帰ったら知人に実情を伝え、機会があればまた来たい」と語る。
 震災体験を話す語り部を務めるのは、町内の「ガイドサークル汐風」のメンバー。団体の視察なども含め依頼が相次いでおり、6月までは予約でいっぱいという。
 町観光協会の及川和人さん(31)は「震災で何を失い、何を学んだのか、ガイドが町民だから重みを伝えることができる。学びの場として訪れてほしい」と強調した。
 産業の柱だった観光の復活は町の復興に欠かせない。「今後は漁業体験などを組み合わせ、積極的な情報発信も検討する。ツアー客に繰り返し足を運んでもらうよう努力したい」と及川さん。将来の観光需要を支えるリピーター拡大に意欲を見せる。


 

2011年12月5日月曜日

山形自主避難母の会代表・中村美紀さん

朝日新聞デジタル版(2011年12月05日)より

 東京電力福島第一原発事故以降、福島県からの自主避難者が増え続け、県内にいる避難者の約9割を占める。多くが夫を福島に残している母子たちだ。9月に発足した「山形自主避難母の会」代表の中村美紀さんに、母子を取り巻く厳しい現状や取り組みを聞いた。∞ 福島から自主避難、母子の現状は 母親の孤立防ぐ対策必要
 ――山形自主避難母の会を立ち上げた理由は
 8月15日に避難してきた当初は、自主避難は自己責任なので騒ぎ立てない方がいいと思っていました。でもブログに現状を書いたら、連動するツイッターに約700件の投稿があって。避難と子育てに疲弊している深刻な声に、何とかしなければと思いました。周囲の母親に呼びかけ、9月22日に福島県に「要望」を出したのが始まりです。
 ――自主避難した母子たちの現状は
 20代~30代前半の若い母親が多く、経済的に余裕がありません。借り上げ住宅の家賃補助があっても、光熱費や食費など月10万円弱の生活費がかかり、乳児がいたり妊婦だったりするので、働くのも難しい。避難生活に疲れ、孤立する人も多いのです。
 ――住民票を地元に残している人が多いですね
 福島に夫がいる、移すと子どもの健康被害の調査案内などが届かなくなる恐れがある、という2点がが大きな理由です。今後の補償や調査が、福島に住民票があった日付で切られることもありえます。
 ■ 当然のこと要望
 ――住民票が避難先になくても乳幼児医療費助成の一時的な窓口負担をなくしてほしいと主張しています
 全国一律の予防接種も避難先で受けられないのはおかしい。要望に書いたのは、最低限の生活を守る当たり前のことだと思っています。
 ――ほかに母親たちにとって深刻なことは
 経済面のほかに、精神面が大きい。主人も実家もコミュニティーもなく、うつになる人もいる。母親が元気をなくせば、子どもの心の不安にも影響します。
 ――母親に必要なケアは
 「自分」の時間を持つこと。子どもといったん離れて喫茶店や美容院に行ったり、母親同士がランチをしたりできるよう、子どもをすぐに預かってもらえる実家のような場所もつくりたい。避難者の雇用にもつながればいいと思います。
 ――自主避難者が支援を求めることに批判の声もあります
 ブログには「避難できた人はまだいい」「これ以上避難するしないで風評被害をあおらないで」など、福島にいる母親の声も一部寄せられました。でも自主避難者の現状を発信することは、福島県に残る母親たちの苦悩を伝えることに必ずつながると思います。福島から避難したくてもできない事情の人も多いので、「週末避難」の検討など、避難者と福島県内の母親たちでつながりを持ちつつ、乗り切っていきたいです。
 ■ 家賃補助延長を
 ――山形県に望むことは
 支援の道筋を作っていただき、県民の方に心からお礼を申し上げます。今は借り上げ住宅の家賃補助制度をできるだけ延長してもらえるよう、福島県に働きかけてほしいです。年内までという話もあるが、それではあまりにも乱暴です。
 ――いま伝えたいことは
 避難者の中には苦しい人も多いけれど、受け止めてくれる人が近くにいるはず。みんなで手を携え、福島の親子が元気でいられるようつながっていきたいです。数年後、子どもにも何事もなく、大げさだったねと笑い合いたい。元の福島を取り戻したいと願っています。(聞き手=畑山敦子)
 ◎ 山形自主避難母の会
 山形県内にいる自主避難者約100人が登録。新潟市の避難者団体と連携し、福島県知事に要望書を提出したり、福島県議選の候補者に公開質問状を送ったりしてきた。主に(1)住民票を移していないことによる乳幼児医療費助成の一時的な窓口負担をなくし、避難先でも予防接種を受けられる措置(2)避難者専用の託児施設の設置や補助(3)福島から会いに来る家族向けの往復バスの整備(4)母親向けの雇用促進、などを求めている。
 なかむら・みき 福島市生まれ。夫と9歳、4歳、2歳の娘3人と福島県郡山市に住んでいたが、娘たちと山形市に避難してきた。夫は福島に残っている。郡山では料理教室など食に関わる仕事をし、今も月数回、通って続ける。自主避難者の交流が中心のNPO「りとる福島」の活動にも携わっている。中村さんのブログは( http://mikttymama.exblog.jp )。

2010年6月22日火曜日

京都・京丹後市の梅本修さん(46) 有機野菜 土づくりにこだわる

日本農業新聞2010年06月22日

 京都府京丹後市の梅本修さん(46)は、3.6ヘクタールで40品目の野菜を有機栽培する。慣行農法で葉タバコやダイコンなどの露地野菜を9ヘクタールまで規模拡大した経営を7年かけて有機農法に切り替えた。連作障害や病害虫被害を抑える輪作や混植といった手法を駆使し、安定生産する。有機野菜の地元流通を増やす活動にも力を入れる。

 梅本さんは1997年にサラリーマンを辞め、国営農地のある同市(旧弥栄町)に新規就農した。就農時は3ヘクタールでスタートし、2003年には9ヘクタール(葉タバコ3.5ヘクタール、ダイコン2ヘクタール、サツマイモ1ヘクタールなど)まで拡大。パート従業員は常時10人を抱え、粗収益は目標だった2200万円を達成した。

 転機を迎えたのは消費の現場を探ろうと、03年冬に学校や病院に給食を提供する給食センターを訪問したのがきっかけ。同センターの食材の大半が外国産だった。梅本さんは、将来を担う子どもたちや、体を治すための病院患者に外国産農産物が大量に利用されていることに驚き、同時に自らの農法に疑問を抱くようになった。

 「食べる人の気持ちを考えた農業とは、生き物をはぐくむ有機農業ではないか」と考え、経営方針を切り替えた。「サラリーマンを辞めて就農した時よりも、有機農業に切り替えるほうが不安いっぱいで一大決心だった」と当時を振り返る。

 有機農法の知識を学ぶため、大学の研究者や有機農業に取り組む農家との交流を深め、技術向上を図り、販路を広げていった。

 栽培のこだわりは土づくり。牛ふんや豚ぷんなどの畜ふんは使わない。害虫が発生しやすくなると考えるためだ。植物由来の堆肥(たいひ)を確保するため、地域の河川敷で廃棄物となる雑草を買い取り、堆肥として活用する。「土の中の微生物が野菜を育てる」と考える。紫外線が苦手な微生物が常に活性化する環境を整えるため、圃場(ほじょう)にもみ殻や落ち葉などをまいている。

 経営作物も切り替えた。6品目だった作物は現在40品目に。しかし、9ヘクタールだった経営面積は半分以下の3.6ヘクタールに。このうち07年に1.2ヘクタールで有機認証を取得。09年には2ヘクタールまで広げた。残りは認証を受けていないが、認証圃場と同様に栽培する。

 スーパーや漬物業者などとの契約も取りやめ、09年の粗収益は1400万円とピーク時の4割減となった。しかし梅本さんは「収益増も大切だが、薬(農薬)とサプリメント(化学肥料)に頼る農業よりも、自然と共生する有機農業が魅力的だ」と強調する。

 有機農産物の大半は、市外の有機農産物を専門に扱う小売店や生協などと取引する。地元流通は全体の15%にとどまる。このため地元流通を増やそうと今年から、地元の消費者に詰め合わせを宅配する活動や、学校給食への提供に乗り出す予定だ。「足元から有機農産物のファンを増やしたい」と意欲的だ。

〈ポイント〉
[1]作物増やし40品目に [2]安定生産へ輪作・混植 [3]地場流通の拡大に挑戦

〈経営概況〉
 労働力=修さんと妻、研修生1人、農繁期にパート従業員が5人。

 粗収益=約1400万円。

 京都府北部にある。農業は稲作と梨が盛ん。梨は「ゴールド二十世紀」のうち糖度が11.5以上のものを「京たんご梨」に認定している。