2012年7月28日土曜日

戻れぬ福島を思う苦しみ 〈母子避難と向き合う〉

写真・図版

中村美紀さん
■山形避難者母の会代表 中村美紀(なかむら・みき)さん
 福島県郡山市から山形市に避難して1年以上が経ちました。私の判断は間違っていなかったか、福島に残る大切な人たちを、県外避難という行為で傷つけていないか、ずっと自問自答してきました。福島に戻りたいが、まだ戻れない。自分が「戻れない」と言う場所に夫や親、親戚、友人たちが住んでいる。その事実がずっと私を苦しめてきました。
 福島で生まれ育ち、結婚し、子どもを産み、骨を埋めよう。そう思っていた一人です。故郷が恋しくて仕方ありません。家族と夫と暮らしたい。
 長女(9)、次女(5)、三女(2)と昨年3月に茨城県にいったん避難し、一度郡山に戻りましたが、長女に鼻血や口内炎など心配な症状が出ました。山形県が自主避難者を受け入れ始めていたので、山形市に避難しました。すぐに福島からの避難者約100人のメーリングリストに加わりました。
 福島では放射能の話はできませんでした。洗濯物を外に干してる? 福島産品を食べてる? そんな会話で互いの考えを探り合うしかなかった。避難者同士メールでやりとりすると、直接会いたくなった。ただ一言、「大変だったね」と言ってほしかったんです。会うと、それだけで涙が出ました。「放射能怖いよね」「当たり前だよね」と、やっと言えました。
 今年5月には交流拠点「ふくしま子ども未来ひろば」を立ち上げました。資格をもった母親が多く、託児をし、読み書きも教え、助け合っています。
 福島県に残っているお母さんだって不安はあります。子どもを週末などに県外や線量の低い地域に行かせる「週末保養」は疲れるかもしれませんが、思いきり深呼吸し、リフレッシュできます。1週間のうち数日だけでも放射能によるストレスから解放されれば、避難しなくても家族一緒に暮らせます。
 避難が長期化すると、子どもは土地になじみ、帰りたがらないかもしれない。年齢によっては福島を覚えていないかもしれない。定住する人、帰る人、これから分かれていくでしょう。
 山形県への避難者は、いずれは福島に帰ることが前提です。家族や知人、福島の様子が気になるから、隣の県にとどまっている。県外へ避難した人たちと福島をつなぐこと、双方の気持ちを伝えること。それが県外に出ることができている私たちの役割だと思っています。
 県外に避難する、福島にとどまる。どちらの選択も肯定すべきだと思います。それができて初めて福島の復興がある気がします。ストレスなく普通に暮らしたい。その思いは一緒です。
 娘たちの未来が、福島の明日が、今よりもよいものになるように、大人として責任を果たしたいと思っています。(聞き手・西村隆次)
     ◇
 75年、福島市生まれ。栄養士資格を持ち、料理教室などで教えている。「山形避難者母の会」代表。今年5月、福島からの避難者の交流拠点をJR山形駅近くに開いた。

朝日新聞 2012年7月28日03時00分