2014年6月29日日曜日

(プロメテウスの罠)県境の先で:20 移住者の支援始めた

 ◇No.963
 2011年10月、宮城県丸森町耕野(こうや)地区からの移住を決めた小山田竜二(38)・伊織(42)夫婦は、そのことを打ち明けられずにいた。
 豊かな自然が気に入ってこの町に住んだ。しかし原発事故で、丸森で得られる良さがなくなったと思う。となれば、丸森にいる意味はない。
 「でも、避難しないことを決めた人たちもいる。だから打ち明けられなかったんです」
 丸森は、その後12月に国が定めた「自主的避難等対象区域」から外れた。移住する場合、国や東京電力からの補償はなく、費用は自腹だ。県境で接する福島県伊達市は、賠償金がもっと出るのに。
 移住先は奈良県宇陀(うだ)市だった。20代のころ、奈良県内の知人宅で居候したことがある。そのときの経験からたどりついた。
 12年3月、耕野地区住民の集まりがあった。その場で伊織は移住を告白した。批判を覚悟していたのに、住民は「がんばって」と励ましてくれた。ただただ、うれしかった。
 小山田は、丸森を去ったことを避難とはとらえていない。丸森から遠く離れ、少なくとも丸森よりいい場所へ移住する。そう考えないと、気に入っていた丸森の生活をなげうつ意味がない。だからこそ、原発事故の影響は大きかったと考えている。
 移住後の12年7月、小山田夫婦は移住者の受け入れや支援を行う団体「やまとのだいち」を立ち上げた。支援を模索していた奈良県内のフリーマーケット運営者や、被災者支援に取り組む団体と動きが一致した。
 東北から移住や保養で奈良に来る場合、子ども1人に交通費1万円が出る。活動の趣旨に賛同してくれる人たちの寄付でまかなっている。
 これまで、福島県などから9世帯21人が小山田家に滞在した。宮城県からはまだいない。
 小山田は、丸森を出ると決めたときに、後ろめたさや不安が大きかった。だからこそ、移住を考える人がいれば、積極的に受け入れてあげたいと思うのだ。
 「自分たちにしかできないことだと思ったんです」
 そんな小山田が相談を重ねていたのが、同じ耕野の養蜂業石塚武夫(いしづかたけお)(43)だった。千葉県から耕野へ1997年に移住した。
 石塚も原発事故直後、妻と3人の子どもを千葉の実家に一度避難させた。だが約1カ月後、小学校の始業式に合わせて戻した。以後は避難していない。
 (岩堀滋)