2016年8月22日月曜日

夢の自然農、山形で始める 京丹後に一時避難の橋本さん夫妻「いのちのつながり大切に」




「いのちを大切にする農業を続けたい」と語る橋本さん一家=山形県大江町で2016年8月3日、塩田敏夫撮影


 東日本大震災、そして福島原発事故は多くの人の運命を変えた。放射能汚染のひどい地域の人々は未だに帰郷できず、避難生活を送る。福島県郡山市出身で、一時京丹後市に避難していた橋本光弘さん(38)、彩子さん(36)夫妻は今、山形県大江町に暮らす。夢だった農薬や化学肥料を使わない自然農を実践し始めた。真っ黒に日焼けした夫妻は「経済効率を追求した結果、取り返しのつかない原発事故が起きた。本当の豊かさとは何でしょうか。いのちのつながりを大切にする社会を目指したい」と語った。【塩田敏夫】
     橋本さんは工業高校を卒業後、化学メーカーに就職し、12年間働いた。しかし、自社の利益のために限りある資源を浪費していると感じ、就農を目指し始めた。思い切って農機具を買った時、東日本大震災が発生した。
     郡山市は震度6弱。当時2歳だった長女夏実さん(8)と0歳だった長男健ちゃん(6)にガラス片が降り注ぐのを防ぐのが精一杯だった。
     郡山市は福島原発から60キロ離れている。当時、橋本さんには根拠のない「安心感」があり、放射性物質の危険性についての十分な認識はなかったという。
     しかし、放射性物質による土壌汚染で農作物の作付けを断念せざるを得なかった。喉に違和感を感じ、大量のたんが出るようになった。夏実さんは頻繁に鼻血を出すようになってしまった。子どもたちの様子を見て、いても立ってもいられないようになった。心身とも限界を超えた。
     震災から2ヵ月余り経った5月26日、同居する両親に別れを告げた。父親は脳梗塞(こうそく)で寝たきりの状態。母親が介護していた。絶望して言葉を発しない父親、号泣する母親。橋本さんは車に荷物を積み込み、逃げるように丹後に向かった。インターネットで調べた結果、農業を志す人を受け入れるとの情報があったからだ。
     丹後の人々は温かく迎えてくれた。京丹後市も家探しに積極的に動いた。橋本さんは同市弥栄町黒部の梅本農場で働き、彩子さんは同町の溝谷区の事務所で事務員となった。
     2年近く、丹後で暮らした。将来の独立のために家と農地を探した結果、山形県大江町が若い就農者を求めていることが分かり、思い切って移住することにした。大江町なら郡山市の両親にも定期的に会いに行ける距離だった。
     大江町は山形県の中央に位置し、人口は約9000人。農業が盛んだが、後継者の育成が大きな課題だ。橋本さんは今、80アールの田んぼと80アールの畑を耕す。松尾芭蕉が「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んだ最上川のほとりが耕作地だ。草取りが大変で、周囲の人たちから「変わり者」と言われるが、愚直に自然農を貫く。米や野菜は「おいしい」と評判を呼び、山形市内などの顧客が増え始め、彩子さんが配達に走る。
     橋本さんは「原発事故が起き、自分たちの暮らしが一変しました。いのちを守るため、何が本当の情報か見極めなければならないと痛感する日々でした。国がしたことを市民がきちんと考え、声を上げることが必要だと思います」と話した。
    〔丹波・丹後版〕