2018年6月26日火曜日

年々右傾化する若者、原因は情報過多にあり

http://news.livedoor.com/article/detail/14919159/

 最近いくつかの出来事で痛感したのですが、年齢の高低を問わず、日本人は外国語の文献にアクセスしないようです。
 私たちが学生だった1970~80年代、また90年代前半あたりは、いろいろな意味で世界が全く違っていました。海外から本を1冊取り寄せるのは大変でした。
 私たち洋楽の人間にとって、本とはまずもって楽譜です。フランスから1冊の総譜を取り寄せるのに何週間もかかったし、手に入った1冊は本当に貴重で、スポンジのようにそこから吸収したものです。
 翻って今日、ネット上に驚くべき量の資料が、大半は無料でいくらでも転がっている。
 ところが、それを丹念に追うといったことを、意外なほど若い人がしない。そういう出来事が続きました。具体的には学生なども関わることなので端折りますが、要するに、調べない。
 当然、本も調べない。日本語で、簡単に手に入るネットで済ませる。邦文でも本で確かめるということはしない。
 欧文などは、すぐにアクセスできるはずなのに、また中学1年以来、かなりの時間を英語に割いているはずなのに、日常生活で日本語以外のリソースから「真面目に」情報を得るという感覚がない。
 外国語で書かれたものを何か、冗談のように思っている傾向すら感じるケースがありました。「それって日本語じゃないんですよね? だったら・・・」みたいなリアクションで、ちょっとショックを受けました。
 私は逆で、日本語でしか書かれていないことは、どう信用すればいいのかと思ってしまう。邦文は裏を取って初めて納得するかもしれないし、しないかもしれない。
 翻って、同じニュース、例えばドナルド・トランプ米大統領のパフォーマンス外交未満について欧米各国語で社説を読み比べれば、ああ、欧州側はやっぱりこういう反応か、米国は民主党寄りのポール・クルーグマン教授はこういうリアクションか、共和党サイドですらここまでけちょんけちょんか、といったことが一通り分かります。
 このコラムを準備するうえでも、必要に応じて裏を取りながら書いているわけですが、いとも簡単に、どうみても何も参照せずに、井の中の蛙丸出しの読者コメントも目にします。

「情報満腹感」がもたらす「情報栄養失調」

 現実には海外の資料をいくらでも参照できるようになっているのに、ちっとも参照しない、見る気もしないというのは、情報に対する満腹感、「いっぱいいっぱい」の感覚があるように思われます。
 森の中に落ちている木の葉の枚数を、人は数えようとは思わない。最初から多すぎるので、見ようという気にもならない。
 私たちの学生時代、海外からまれにもたらされる1冊のスコアは本当に貴重で、何よりも情報量が少なく、到着まで日時も待たされたので、いわば情報空腹感、と言うより飢餓感にも近いものがあり、渇望して手に入れますから、貪るようにそこから吸収できた。
 しかし、いまの若い人たちにはそういう感覚が最初からない。感じたくても飢餓感などあるわけもなく、生まれて物心ついた頃にはすでにインターネットが普通にあり、身の回りに情報と名のつくもので満ちあふれていた。
 頼まなくても口の前にスプーンに入れて運ばれるような環境の中で、むしろ、どうやって情報を制限するか、それに取られる時間を節約して、勉強なりゲームなり別の活動に余裕を残す工夫をするかに重点を置く。
 1990年代末以降に生まれた世代は、いま20代後半、30代より上と、かなり異なる。
 しかし、そんな偏った「情報飽食」環境の中で、かえって別の情報の「栄養失調」が起きているのではないか。そんな気がしてならないのです。
 身の回りにあふれる情報の大半は、実は企業からもたらされるサービスで、必ずしも教養としての「栄養バランス」が取れているわけではない。
 そうした身近な情報でお腹いっぱいになってしまい、本来身に着けるべき基礎的な情報感覚、あえて「学力」などとは言いませんが、むしろ「常識」に近いものに欠乏するようになってしまっているのではないか。
 そんなことを気にしていたところ、次のような統計結果をネットで見かけました。
 2001年、2007年、2013年と6年ごと3回にわたって、東京、大阪、福岡で調べた高校生の意識調査の結果です。
 「校則は守るべき」かという質問に対して、2001年時点の高校生では「そう思う」が16.8%「どちらかというとそう思う」が51.5%、合わせて67.3%、7割弱程度だった。
 それ対して2007年では75.4%、2013年時点の高校生では実に87.9%がそう思う系統で回答しているという結果だった。
 びっくりしたと言うより、とても気持ちが悪いと思いました。

 実際にデータを見てみると「どちらかというとそう思う」は一貫して50%強、つまり2人に1人は何となくそーなんじゃないで変わらないわけですが、2001年では17%弱にとどまった「そう思う」が2013年では2倍以上の35%。
 逆に「そう思わない」は11%から3%弱と、ほとんど「絶滅」の危機に瀕している。すごいことだと思いました。
 2001年の高校生=15~18歳程度とは1983~86年頃に生まれ、物心ついた頃にはまだ東西冷戦末期、やがて冷戦終結後にネットが出まわり始めますが、いまだインターネットは子供が手にするものではなかった。
 ポケットベルなども持っていた可能性がある、いわばネットワーク化直前程度の青年層と言っていいでしょう。
 これに対して2007年の高校生とは1989~92年頃に生まれ、小学校に上がる時にはネットがつながり、携帯電話が一般的になった世代の青年層にあたる。
 2013年の高校生とは1995~98年頃の生まれで、生まれた瞬間にはすでにインターネットがあり、中学に入る時にはすでにスマートフォンが出回り始めていた。
 2世代前とは比較にならないほど、身の回りに情報が出回っているであろう世代ということになります。
 一般的には、参照可能な情報が増えれば増えるほど、客観的で合理的な判断がしやすくなると思われるのですが、実際には大勢順応型。
 決められたルールは従った方がいいと、仮に建前であったとしても、答えてしまう。何と言うか、サラリーマン臭い、年寄じみたティーンエージャーが倍増している。
 別段「盗んだバイクで走り出せ」とは言いませんが、青春は叛逆のシンボルのような世代と思うのは私が古い人間だからなのでしょうか。
 校則だって、納得のいかないものは守らなくてもよい、なんて意見はいまやおよそ少数派で3%もいない。
 出典を取り寄せ、このデータは大阪大学の計量社会学グループの定点観測的な調査の結果と知りましたが、この結果が正しいとするならば、凄い時代になったものだと思わざるを得ません。
 さらにびっくりしたのは、これと並んでいた他の調査結果でした。
 例えば「太平洋戦争の件で日本は謝罪すべき」かという問いに対して、2001年の高校生は過半数の65%弱が「そう思う」だったのに対して2013年では4割弱と完全に逆転している。

 また、「日本の伝統・文化はほかの国より優れている」が2001年では3割弱にとどまったのに対し、2013年には過半数の55%強にも達している。
 見かけ上の右傾化、反動化、つまるところ「若年寄化」が急速に進んでおり、これはいけない、と思わざるを得ませんでした。

 第2次世界大戦時に旧日本軍の取った行動の中に、言い逃れできない蛮行があったのは否定しようのない事実で、沖縄など現在までその爪痕が決して消えていません。
 グローバル・ネットワーク化が本当の意味で進み、内外の意見を比較対象しつつ、真の意味で国際社会の成員、コスモポリタンとして生活するようになれば、そうした事実の上に思考を構築していくものでしょう。
 また、真の意味で国際的に文化や伝統を理解するようになれば、日本の美点を深く知るとともに、例えば私たちが用いる「漢字」がどこから来たか、またその漢字から仮名がどのように生まれたか、といった基本的な事実だけからも、中華文化圏の深さ、大きさ、グローバルな影響などは自明のことでしょう。
 日本の様々な文化・習俗が朝鮮半島の進んだ文明を取り入れて成立していることも当然の大前提と分かるはずです。
 例えば、宮内庁なども伝承・保存し続ける雅楽の<舞楽>は、左方の舞として唐楽、右方の舞として高麗楽が交互に舞われ、どこにも日本はありません。
 もっと言うなら、唐と高麗をこのようにコンピレーションしたところに日本の国風文化が成立している。
 自国の文化だけが他よりも優れている、などという世間知らずで田舎臭い意見など、恥ずかしくて見ていられない、というのが率直なところです。
 上の調査結果、禁欲的な計量社会学の観点からは保守化する10代という以上の結論は導かれないかと思います。
 ティーンを取り巻く情報環境の圧倒的な利便「向上」、あくまで「」つきですが、を念頭に置くとき、「ちょっと検索すれば、いくらでも情報が入ってくるはず」の世代が「情報が身の回りにあふれすぎ、飽食・思考停止したまま情報飢餓状態に陥没」という現実の姿が見えてくるように思われます。
 社会学などの観点から、あるいは別途の調査からも、もっと進んだ分析が行われているかと思いますが、今日の飽和的な情報環境が「木を隠すなら森の中」的な状況を作っているのは間違いないでしょう。
 さらに言うなら、そうした「ビッグデ―タ」に、天下りブラックボックス的なデータ・マイニングが施され、正体不明のデジタルおみくじ右往左往のポストトゥルース状態を悪化させてしまうと、社会全体がかなり困った状況に陥ることも懸念されます。
 少子高齢化と言われ、少ない人口で国を支えていかねばならないはずの若い世代になるほど、思考停止の度合いが深まる、などということがあるなら、相当由々しいことと言わねばなりません。
 手をこまぬいてみるばかりでは、事態は悪化の一途をたどりかねない。教育・人材育成の観点から、かなり徹底した「根起こし」が必要ではないかと思います。
(つづく)
筆者:伊東 乾